文化・社会よもやま話

新旧大陸10ケ国余を巡った社会人類学者の文化あれこれ

日本の文化とマスクの装着ー新型コロナ感染が流行する中でー(二)

日本の文化とマスクの装着ー新型コロナ感染が流行する中でー(二)

                                 三田千代子

 今日では日本語として使用されている「マスク」の語源は英語のmaskである(フランス語ではmasque、ドイツ語ではmaskeで、いずれも語源は同じ)。最初から日本で「マスク」の表記が用いられたのではない。当時の新聞は「口蓋」あるいは「口蔽器」と記してルビ「マスク」を振っていた。漢字表記が消えたのは、「マスク」の表記のみでその意味することが分かるようになってからのことだと思われる。今や「口蓋」あるいは「口蔽器」と書かれても判らない。今日では「口蓋」は口腔器官の一部を示す用語として用いられている。「スペイン風邪(スペイン・インフルエンザ)」が流行し、感染に対して注意を促すなかで「マスク」とのみの表記になっていったようである。

 今や日本人はインフルエンザの季節を迎える冬にマスクを装着し、春から秋と続く花粉症の季節が終わる頃にやっとマスクが町から姿を消す。大げさに言えば、マスクなしの光景が見られるのは、一〇月から一一月にかけてのたった一~二ケ月間のことであろう。日本人がこれ程マスクと親しくなったのには日本固有の社会文化的要因が関係してきたのではないかと考えてみた。

 まず、一九世紀末から二〇世紀初めまで「国民病」あるいは「亡国病」と恐れられ、日本人の死亡者数の一割から三割を常に占めてきた病結核がある。結核弥生時代に稲作と共に大陸から伝播した病で、江戸時代から明治期の都市化と工業化に伴い感染者が拡大し、一九一〇年をピークに下降傾向を辿っていた。しかし、「スペイン風邪」の流行で結核感染者の死亡が増加し、結核による死亡者がこの時ピークに達した。その後、満州事変まで下降線を辿ったが、再び死亡者が増加し、太平洋戦争が終わるまで増加している。

スペイン風邪」がすでに終息した一九三四年の結核罹患者数は一三一万人を超えており、死亡者数は一三万以上に上っていた。一九〇〇年から五四年まで、結核は各年の死亡原因の一位から三位までを常に占めてきている。一九四四年の治療薬ストレプトマイシンの開発によってやっと「不治の病」から解放されたが、一九五五年以降でも年間の発病者は三〇万人を数えており、二〇一〇年現在でも年間の新規登録感染者は二万人を超えている。先進国の中では結核罹患率は高い国なのである。治療薬が開発されるまで、感染を避けるためにマスクが用いられ、罹患者はサナトリウムに隔離された。とりわけ、換気の悪いところではマスクの使用が奨励された。そう、女工哀史の世界である。富国強兵の国策に沿って、密閉された空間の中で長時間にわたって多数の女工が生糸を一斉に紡いだ。その結果、紡績工場で働く女性が結核に侵された。結核を患った女工は、故郷に帰された。『ああ野麦峠』の舞台である。結果、結核は農村にも拡散することになり、都市の病気ではなくなった。女工ばかりではない。日本の徴兵制も同様の役割を担った。兵役に服する男性が兵舎内で感染し、帰郷と共に農村に感染が広がったのである。この都市のみでなく農村も巻き込んでの結核の全国的な蔓延が日本の結核の特徴の一つである。都市にも農村にも広がったがゆえに、有名人の罹患も多かった。正岡子規徳富蘆花堀辰雄石川啄木樋口一葉竹久夢二滝廉太郎陸奥宗光、新島蘘、そして昭和天皇の弟の秩父宮雍仁親王と、誰でも罹患する病であった。罹患を恐れてマスクが使用されるようになったとしても不思議ではない。とはいえ、結核は日本だけではなく、ヨーロッパでも身近な死の病であった。

 結核菌を発見したロベルト・コッホは七人に一人が死ぬ病としている。トーマス・マンの『魔の山』では、スイスのダヴォスのサナトリウムに従兄弟の見舞いに訪れた主人公が、結核に感染し、そのまま七年間同サナトリウムに滞在している。画家のエドヴァルド・ムンク結核で死亡した母や姉の姿を描き残している。ヴェルディの『椿姫』やプッチーニの『ラ・ボエーム』のヒロインはいずれも結核で死を迎えている。結核だけで日本人のマスクとの親和性の十分な説明とはならない。

 次に、日本語の発音から考えてみた。日本語の音素の数は西洋の言葉と比較すると少ない。母音は五つ、子音は九つにすぎない。アルファベットを用いる言語のように、〔 も〔b〕と〔v〕も、〔r〕と〔l〕も音の違いを認識しない。かつては区別していたとされる〔f〕と〔h〕も現在は区別していない。英語のrace(「競争」あるいは「人種」)と  lace(ひも、編みもの用のレース、モール)は、はっきり区別して発音しないと誤解を招くことになろう。bowは「弓」だし、vowは「誓い」である。ぼそぼそ言っていては判らない。日本語では「おとうさん」でも「おとおさん」でも「おとーさん」でも判る。「しあわせ」でも「しやわせ」でも誤解はない。日本語を習い始めたヨーロッパ語を母語にする外国人は、この日本語のはっきりしない発音に戸惑うという。どうも日本語は各音素がはっきり聞こえなくても理解できてしまう言語のようだ。つまり、マスクで籠った音を発してもコミュニケーションは取れるのだ。

 これには伝統的な日本のしぐさも関係している。平安時代から扇で顔を隠す習慣が貴族の間にあり、しかも御簾を通して発話をしていたのである。これでは、口元どころか顔もはっきり見えなかったであろう。つい最近まで女性の嗜みとして大きな口を開けて声を立てて笑ってはいけないという躾けがなされていた。要するに口元に目が向けられることは避けられてきたのである。従って、マスクをして顔が見えなくても構わないのだ。むしろ顔の表情が見えない方がいいのかもしれない。日本の諺で「目は口ほどに物を言う」というのも、口に目を向けないからこそ生まれたものであろう。

 日本人には「スペイン風邪」以後も、結核感染が常に身近であったことからマスクとの付き合いがこの一〇〇年間続いてきたようだ。そしてインフルエンザだ、花粉症だと言ってマスクを手にするようになった。とはいえ、諸外国にもインフルエンザも花粉症もある。でもマスクを用いない。そこには前号の記述のようなネガティブなイメージが付いて回るからである。日本人がサングラスにある種のイメージを抱いてきたのと似ているように思える。

 新型コロナの感染を避けるためにはマスクといっても西欧世界でなかなか普及しないその背景には歴史文化的な関係が潜んでいるのだろう。コロナ感染が世界的に広がるなかで、ヨーロッパでもアメリカ大陸でも各国の行政機関はマスク着用を住民に訴えるようになったが、なかなか普及しない。フランスやドイツでは「人権侵害だ」「民主主義に反する」とのデモが勃発したり、マスクの着用を乗客に促したバスの運転手が殺害されたりしている。米国では「自由の侵害だ」というデモが起こったりしている。コロナ禍に対する鬱積した気持ちがマスク着用に抵抗する行動を生み出しているのだとは思われるが、同じように感染がなかなか収束しない日本では、マスク未着用者を非難するという欧米諸国とは全く反対の「マスク警察」の出現である。現在のコロナ禍を前に、欧米社会はマスク着用という新たな生活様式を歴史を克服して身に付けることになるのだろうか。

                         (二〇二〇年八月一〇日記)

日本の文化とマスクの装着ー新型コロナ感染が流行する中でー(一)

日本の文化とマスクの装着ー新型コロナ感染が流行する中でー(一)

                                 三田千代子

 新型コロナ感染に世界中が巻き込まれている。ヨーロッパで最初の爆発的感染をみたのはイタリアである。湖北省の中国人夫婦が二〇二〇年一月二〇日頃にイタリアを訪れたことによって感染が始まったとされる。続いて、二月初めにチャーター機武漢からイタリアに帰国した研究者が感染していたことも判っている。チャーター機を二月早々に飛ばしたということは、すでにイタリア政府は新型コロナの感染を認識していたのである。日本でも二月にはコロナ感染に対する警戒感が浸透し、花粉症対応に加えてのマスク利用者が増えた頃である。以後、コロナ感染者は日本でもイタリアでも増加し、日本では三月にはマスクが店頭から姿を消した。にもかかわらず、どういうわけか街行く人はマスクを着けて歩いている。こうした感染を前にしての日本人のマスク姿は先進諸国でも大して変わらないものと思っていた。ところが、イタリア、ミラノの映像をテレビで観て驚いた。日本よりすでに感染数が多く出ているミラノの町の中心ドゥオーモの前をわずかな人が行き交っているのだが、マスク姿は観られない。時にはドゥオーモに続く階段に男女二人が腰かけてハグをしたりして、接触を恐れていない映像が映し出されていた。パリのセーヌ川岸を行き交う人々の光景もミラノと大きな差はなかった。 

 

 そこで、数か月前に友人が話してくれたブラジル、サンパウロの観光旅行での出来事を思い出した。喉の弱い友人は宿泊先の売店に夜分マスクをしたまま買い物に降りて行った。その売店に居合わせたブラジル人親子が友人を見て酷く驚いたという。反対に友人は、そのブラジル人親子のリアクションに驚いたというのだ。ヨーロッパ移民が作り上げたブラジルでは欧米文化が踏襲されており、夜、マスクをして店に入ってくる人物は素性を隠した強盗と思われるのだ。あるいは、恐ろしい感染症に患っていると思われるのである。現在日本で英語を教えながら文筆活動をしているイギリス人が、初来日した時、成田空港で目の前を通っていく日本人がマスクをしているのを目にして、日本では大きな病気が流行しているのかと思ったそうだ。またマスクをした相手の表情が判らないので不気味にも感じたという。

 

 そもそもこのヨーロッパ言語由来の「マスク」を日本語として用いるようになったのはいつからなのだろうか。

 

 東京医療用品卸業界の資料によれば、日本のマスクの歴史は大正年代に始まるのだそうだ。当初は工場内での粉塵避けとして用いられていたという。しかし、日本で粉塵を避けるようになったのは大正時代になってからではないだろう。それ以前の生活でも行われていたはずである。神社では新年を迎えるにあたって行う年末の大掃除で、紐のついた和紙で口を覆って煤払いをしていた。この口を覆った和紙にはそれなりの日本語の名称があったはずであるが、現代では神社でもマスクがそれに代わって用いられてしまっている。大正時代に工場で用いられるようになったマスクの用途は限られていたのであるから、当然のことながら一般には普及はしなかった。国民一般に浸透するようになったのは一九一八年の「スペイン風邪」の流行によってである。

 

 第一次世界大戦中に感染した米兵がヨーロッパに持ち込んでパンデミックになったのが「スペイン風邪」であるが、その名の通りにスペインで始まったのではない。戦争当時中立国であったスペインは、戦時にある諸国とは違い、この感染症について自由に報道することができた。そのためにあたかもスペインで発症したと捉えられてしまったからである。一九二一年まで「スペイン風邪」は三回流行し、全世界の罹患者は推定六億人(当時の世界人口二〇億人)、死者は二〇〇〇万人とも五〇〇〇万とも推定されている。「スペイン風邪」がインフルエンザであることが判明したのは一九三四年以降のことである。

 

 発症地とされ米国サンフランシスコで、「予防に九九%有効」と謳ってガーゼマスクの着用が一九一八年に市の条例によって義務付けられた。赤十字社が製造販売すると同時に、リーバイ・ストラウス社も製造に乗り出している。このマスクによって街の風景は一変したために、「店員がマスクを着けていたら客が怖がって購買意欲を失う」とマスク着用に反対する住民も出現した。日本でも一九一八年から感染が流行し、一九一九年九月の第二回の流行からマスクの使用が奨励されるようになった。当時の感染予防ポスターは、マスクの使用とうがいを奨励している。「スペイン風邪」による日本の死亡者は三九万とも四五万(日本の総人口五五〇〇万)とも言われ、二三八〇万人に及んだとされる感染者の多くは貧困層の住民で、感染には社会格差がみられると、当時の『高知新聞』は報じている。貧困層にはマスクの購入そのものが負担になったようだ。       (つづく)

 

三田千代子

1964字(2020・05・28)