文化・社会よもやま話

新旧大陸10ケ国余を巡った社会人類学者の文化あれこれ

柿とKAKI-モノの伝播と文化

柿とKAKI―モノの伝播と文化

                        三 田 千 代 子

 五月の薫風に酔いながら駅に向かって歩いていた。いつも目にしていた柿の木が黄白色の小さな花を付けているのに気が付いた。現役時代には脇目も振らず速足でただひたすら駅を目指して歩いており、見慣れた柿の木に咲く花に全く気づくことはなかった。夏休みが終わりまた新学期が始まると、色づき始めた柿の実を駅に向かいながら目にすると、秋学期が到来したことを実感させられたことは思い出す。でも柿の花の記憶は全くない。

柿の木の葉に覆われるように咲いている可憐な花に目をやりながら立ち止まっていると、ブラジルのサンパウロで目にした柿を思い出した。かれこれ50年以上も前のことである。朝市に並ぶ柿は全て完熟していた。日本人の私にとって柿とは、包丁で皮をむいて、シャキシャキと食するものであった。熟し過ぎて形が崩れそうになった柿に手を出すことはなかった。それが、朝市の店頭に並んでいるのである。この今にも崩れそうな柿をどうやって客に渡すのかと見ていると、客がプラスチックの容器を持参し、それに柿をそっと入れている。持ち帰ってそれをどのように食するのか俄然興味が湧いた。日系ブラジル人の友人に聞けば、皮を付けたまま適当な大きさに切って、果肉の部分だけを口で吸って食べるのだという。つまり、「柿を食べる」というのではなく、「柿を吸う」というのだそうだ。もう一つの食仕方はそのままパンに塗って、ジャムのようにして食するという。要するに、ブラジルの柿は渋柿であるために、完熟させなくては食べられないのだという。ならば干し柿にしたらと提案したら、すでに試したが湿気と温度が適当ではなくうまくいかなかったという。それから20年後、サンパウロにKAKI FUYU(富有柿)、KAKI JITRO(次郎柿)といった甘柿が次々と出現した。朝市の店頭では、店主がナイフで皮をむいた柿を適当な大きさに切って道行く客に振る舞っていた。柿は、「吸うもの」から「食べるもの」に変化していた。渋柿を甘柿に変え、柿の食仕方に変化をもたらしたのは、ブラジルに渡った日本移民の功績の一つである。では、以前サンパウロで見たあの渋柿はどこから伝えられたのか。

19世紀に、フランスで観賞用に用いられていた柿をブラジル人の作家が持ち帰ったことがその始まりとされている。最初は種子が、次に苗木がブラジルにもたらされた。独立後の19世紀の初め、ヨーロッパ、特にフランスを範として近代社会を築いたブラジルは、ヨーロッパ伝来の文物を次々導入した。この過程で、柿は「KAKI」としてフランスからブラジルに伝えられたのである。

柿は東アジアの固有種とされ、日本あるいは中国長江流域を原産とするとされる。中国では「柿」の文字を用い、日本では「カキ」と称していた。日本に漢字が伝えられると「賀岐」や「加岐」の文字を当てたようであるが、最終的には中国の「柿」を用いて「カキ」としたようである。となると、「KAKI」としてフランスからブラジルに伝えられた柿は、日本からヨーロッパに伝えられたものと推測される。

イタリアでも柿は「カキ」である。ミラノの市場に並ぶ柿にはCACO(カコ)の看板が掲げられている。なぜCACHI(カキ)ではないのかと店の前で立ち止まる。そうかイタリア語は複数の名詞の語尾は[ⅰ]となる。つまり“CACHI”では複数の柿になってしまうので、商品名は単数(つまり総称として)の”CACO”なのだと合点した。大航海時代を制したスペインでもポルトガルでもCAQUI(カキ)である。となると、日本原産の柿がヨーロッパに、そして新大陸に伝播した経緯が知りたくなる。

柿の学名はDiospyros Kaki Thunbergである。Thunbergとはスウエーデンの植物学者で医者でもあったカール・ピーター・ツンベルグ(Carl Peter Thunberg, 1743―1828年)のことで、出島で商館付医師として日本に滞在し、柿をヨーロッパに紹介した人物の一人とされている。同様に出島に駐在したケンペル(Engelbert Kanpfer, 1651-1716年)やシーボルト(Philipp Franz B. von Siebold, 1796-1866年)なども日本の文化や動植物をヨーロッパに紹介した人物としてよく知られている。特にシーボルトは植物2000種、植物標本1万2000点を持ち帰り、『シーボルト日本植物誌』(瀬倉正克訳、八坂書房、2007年)を著している。

日本の柿は、17~18世紀に「カキ」という名称とともにヨーロッパに伝えられ、さらに大西洋を渡り、南米にもたらさられた。ブラジルで日本移民と出会うと、渋柿が甘柿に品種改良され、柿の概念を一変させた。この間、実に300年。人の移動とともにモノが伝わり、伝わったその先々で新たな文化を創り出した。移動すするヒトやモノが変化しても、移動に伴う新しい文化の創造は常に続いており、人類の歴史は新たな文化の創造の歴史でもあろう。

イギリスの英語にも“KAKI”なる単語がある。米国では、よく知られるようにPERSIMMONが用いられる。この言葉の語源は先住民のもので、日本の柿が米国に伝わった時、Japanese Persimmon Kakiと名付けられたところから、Persimmonが英語の単語として用いられるようになったようである。大航海時代を念頭に置くと、ポルトガルやスペイン商人も日本の柿をツンベルグの遥か以前にヨーロッパに伝えていた可能性はあるのだが、別の機会に調べてみたい。

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