「花見」の花はなぜ桜なのか
「花見」の花はなぜ桜なのか
三田千代子
時は春。寒さに耐え抜いて花が咲き競う季節である。今年のお花見も新型コロナウイルスのパンデミックで制限されるのだろうと桜の花に思いを巡らしていると、ふと疑問が湧いた。春に咲く花は沢山ある。なのになぜ「花見」の花は桜なのか。
「花見」は単に咲いた桜の花を眺めるだけではない。桜の花を愛でながら、仲間を集っての宴を催す春の慣習だ。東京の上野公園、隅田公園、飛鳥山公園といった江戸時代から続く桜の名所には開花にあわせて多くの人が集まる。江戸時代中期の将軍吉宗(在位1716-1745年)が、庶民の娯楽の場にと隅田堤や飛鳥山に桜を植えたことから桜の名所となった。徳川将軍家の菩提寺である上野寛永寺での「花見」に人が多数押し寄せるようになったことから新たな「花見」の場として出現したのが、飛鳥山、御殿山、隅田堤である。
江戸時代の花見が今日の娯楽としての「花見」に繋がるのだが、さらに遡れば、1598年に豊臣秀吉は、死の数か月前に壮麗な花見の宴を醍醐寺の山麓で開催している。当時すでに武士の世界でも「花見」の習慣が根付いていたのだ。さらに800年遡った平安時代にも「花見」は行われていた。奈良時代以前から中国との交易を通じで唐風文化に染まるなかで貴族は舶来の梅を愛でるようになったが、導入された唐文化は大和の国で再解釈され、新たな文化として国風文化の形成に繋がった。嵯峨天皇の時代(在位809-823年)に貴族の間で自生の桜に対するブームが起こり、831年には宮中で天皇主催の行事として酒を酌み交わしながら桜の花咲く木の下で和歌を詠むという「花の宴」が催された。梅から桜に代わる象徴的な出来事は、平安遷都から40年程経た頃、京都御所内裏の「左近梅」が枯れてしまった時の対応である。新たに植えられたのは梅ではなく、桜であった。以来21世紀の今日まで植え替えられながら「左近桜」は継承されている。日本で国風文化が台頭していくなかで、唐の国は衰退の道を歩んでおり、遣唐使も9世紀末には廃された。
750~780年の間に編纂されたとされる『万葉集』には、万葉仮名とされる漢字が用いられたのに対し、最初の奏上が905年にされた『古今和歌集』はいわゆる仮名で表記されていた。このように国風文化が浸透する中で、舶来の梅ではなく自生する桜に目が向けられるようになった。1008年に上梓されたとされる『源氏物語』の「若紫」では、紫の上の美しさを桜に例えている。
他方、農民にとり自生する山桜は農作業のカレンダーのような役割をしていた。桜の花は春の到来を告げ、農閑期の冬が終わり、稲作を始める時期を知らせたと同時にその年の豊作を祈る神事ともつながった。農民は、桜の咲く頃に酒や食べ物を持って「山行き」あるいは「春山入り」と称して山で一日を過ごして、冬を支配していた神様を山に送り返し、山の神を田の神として里に招いた。同時に桜の花の咲き具合によってこの年の稲の出来具合を占った。つまり「花見」は、ここからその年の稲作が始まる農事なのであった。
「さくら」の語源にはいくつかあるが、「咲く」に複数を意味する「ら」を点けたとする説明や稲(さ)の神様が憑依する座(くら)とがひとつの言葉になったとも説明される。後者の説明は当時の農事と直接つながるが、いずれも「さくら」への特別な思いが感じられる。さらに712年編纂の『古事記』や720年に完成された『日本書紀』に登場する女神「木花之佐久夜毘売(コノハナノサクヤビメ)」が「さくら」の語源ともされる。「木花」は桜の花で、年穀を占う神木とされていた。奈良時代から桜と農事をつなげる捉え方を農民がしていたことになる。要するに、日本国内に自生していた桜は、稲作と共に固有の社会文化的役割を担う樹木となり、大坂(大阪)、京、江戸と都市が成長した江戸時代には、「花見」が農事ではなく、庶民の娯楽となったといえそうである。
新型コロナのパンデミックが続くこの数年、シートや縁台に座っての「花見」は難しい。パンデミックが終焉した時、またあの平和な「花見」の賑わいが戻ってくるのだろうか。時間と共に生活習慣は変化する。日本独特の花を愛でる形態が戻ってくることを期待したい。花見の形態がここで変化するなら、これもまた花見の歴史の一ページになるのだろう。
(2022年3月24日)