文化・社会よもやま話

新旧大陸10ケ国余を巡った社会人類学者の文化あれこれ

日差しとイギリス人

日差しとイギリス人

 

日差しが春めいてくると、思い出される会話がある。

もうかれこれ10年以上になるが、オックスフォード大学の研究所で数か月過ごした時のことである。なかなか日差しに恵まれない日が続き、やっと気持ちよい日差しを感じられるようになったある月曜日の朝、研究所に行くためにバス停にいると、研究所の所長が丁度車で通りかかり、同乗させてくれた。そこでかけられた最初の言葉は、「昨日の日差し、楽しんだかい?」 というものであった。こういう挨拶がオックスフォードの挨拶かと勝手に思った私は、「はい、楽しみました」と無難な答えをしたつもりでいた。ところが、次に「何をして楽しんだ?」と訊かれてしまった。下宿生活者の日曜日にはこれといって特別なことはない。日差しを楽しんだといってしまった以上、何をしたか言わねばならないと焦った。そういえば、近くを流れる川まで散歩したら、そこでたまたまボートレースを見学したことを思い出した。そのことを伝えると、それは素晴らしいと言われた。たかだか休日に日差しがあっただけでこんな会話に発展するとは思ってもいなかった。「では、所長は何をして楽しまれましたか?」と訊けば、さらに会話は弾んだであろうが、当時はそこまで思い至らなかった。

4月に日本からオックスフォードに着いて以来、連日はっきりしない日が続いたので、日差しがなくて鬱陶しい毎日だと研究所の所員に愚痴を言ったら、「あなたはまだいいわよ。昨年から先月までずっと雨が降っていたのだから」と言われてしまった。やっと日差しが戻ってきたからか、研究所の職員の皆さんは外に出て、芝生の上で昼食をとりながら陽光を楽しんでいるようだった。ロンドンでも同じような光景を見たことを思い出した。紫外線を気にせず、イギリスでは日差しを浴びながらピクニック気分を、例え昼休みでも味わうのかと思った。そういえば、私が下宿していた長屋の箱庭ほどの裏庭にもバラやその他の草木が植えられていて、お隣同士が垣根越しに話をしながらの庭の手入れをしている光景をよく目にした。

先の挨拶と言い、長屋でのガーデニングと言い、日差しを浴びることを厭わないのだ。日本の紫外線対策の日除け帽を思い浮かべると、なぜイギリスの人はここまで日差しに頓着するのかと思わないでもなかった。

イギリスの日照時間はイタリアやフランスより少ない。ロンドンやマンチェスターはパリにもミラノにも及ばない。ベルリンでさえ日照時間はロンドンより長いというような数値がある。要するに、イギリスは近隣のヨーロッパ諸国より日照時間が短いのだ。そのためか、イギリス人は日差しが気になり、オックスフォードでのような挨拶が交わされるようになったのではないだろうか。しかも、日に当たっていたいのだ。そこで日差しを満喫できる方法が色々講じられてきたのではないかと思いをめぐらしてみた。

まず、ガーデニングである。ガーデニングとは、庭師を雇って庭を手入れするのではなく、

その庭の使用者自身が好きなように庭を作り上げることと理解した。17世紀にプランテーションによる新たな香辛料貿易を始めたのはオランダであったが、18世紀末には、イギリスが植民地ペナン島を胡椒港として開発して以来、植民地帝国を支える産業としての植物栽培とイギリスの風景を彩る観賞のための熱帯植物栽培がイギリス人に庭園熱をもたらした。その代表的な庭園がキュウーガーデンで、大英帝国内の植物が集められ、植栽された。英国内各地の植物園にも海外の植物が移送され、植民地植物園が出現した。19世紀にはイギリス最初の園芸協会が出現している。産業革命によって出現した中産階級が自らの庭の手入れを行うという園芸趣味の普及と重なり、ガーデニングが広がった。

日を浴びるということでは、屋外のスポーツもその代表的文化であろう。サッカー、テニス、クリケット、ボートレース、ゴルフなどといった英国で発祥した近代スポーツは、産業革命をバックに制限的とはいえルールや施設の普遍化が行われ、国内のみならず、英国植民地に普及した。こうしたスポーツは産業革命が生み出した労働者階級にも普及し、アマ、プロの違いはあるものの、すべての社会階級にスポーツが浸透した。

18世紀から19世紀の経済・社会構造に大変革をもたらした産業革命の時代に、知ってか知らずかイギリス人は陽光を浴びる習慣・文化を身に付けることになったのだ。興味深いことに、「くる病(rickets あるいは大人になって発症するのを骨軟化症esteomalacia という)」に対する対応策が動き出した時期とも重なるのだ。「くる病rickets」という病名が、生まれたのは17世紀の英国であるとされる。症状そのものはかなり昔から知られていたようで、中国では紀元前から、西洋では2世紀には知られていたようだが、くる病という病名が用いられて病気が紹介されるようになったのは、17世紀のイギリス人医師によってである。当時、ロンドンの貧民街ではくる病が「英国病」と言われるほど大流行しており、子供ための遊ぶスペースが必要という指摘はされたが、以後200年以上くる病の研究開発は行われなかった。日照時間がくる病に影響することが紹介されたのは19世紀末のことで、来日経験のあるスコットランド人の宣教師で医師のセオボールド・パーム(Theobald Adrian Palm 1848‐1929)*によってである。以来、陽光の大切さが認知されたことが、オックスフォードで体験した挨拶に繋がったと考えるのは、あまりに乱暴な解釈だろうか。

 

  • Russell W.Chesney ”Theobald Palm and His Remarkable Observation:How the Sunshine Vitamin Came to Be Recognised” Nutrients 2012, 4, 42-51 参照

(2277字)                         2023・2・22