文化・社会よもやま話

新旧大陸10ケ国余を巡った社会人類学者の文化あれこれ

知らない振りをするのは日本人だけ?

知らない振りをするのは日本人だけ?

 

海外(その大半は西欧諸国)と日本の挨拶の違いに言及するSNSへの書き込みをよく目にする。ほとんどが日本人の愛想のなさに言及し、挨拶をすればその場の対人関係が和やかになるのにと嘆いている。

 

日本とラテン系諸国での日常の挨拶

確かに、ラテン系諸国を中心に外国で暮していた頃、東京に戻るたびにご近所の顔見知りの方との日常挨拶に戸惑うことが多々あった。たまたまお会いしたご近所の方に笑顔で挨拶したり、時には「おはようございます」などと声を出して挨拶していた。ところが、こうした日常の挨拶に呼応する人はわずかで、多くは目を背けるか、無視する。中には通りの向こうを歩いて来るのに顔を会わせまいとするかのように道の反対に移動してしまう人もいる。単なる顔見知りにどのように接したらいいのか戸惑う日々であった。

イタリアのミラノでは名前を知らなくてもご近所であれば「Buongiorno(おはよう)」「Ciao(こんにちは)」程度の挨拶は交わす。あるいは目を合わせて笑顔で会釈する。ブラジルの大都会であるサンパウロでは、エレベーターに乗ると、ほとんどの人は「Bom dia(おはよう)」と互いに言い合う。ビジネスマンの利用するビルのエレベーターでは、お互いに勤務している会社を承知しているわけではないが、それでも、毎朝エレベーターで顔を合わせる知り合いだから挨拶は交わす。

 

知らない振りする礼儀の誕生

挨拶を交わす理由の一つは、相手に敵意を持っていないということを示すためだと言われる。挨拶の役割をこのように理解するのは、西欧諸国のみならず日本でも同じだろう。となると、挨拶をしない日本人は周りの人に敵意を持っているというのだろうか。そうではないだろう。今の東京はこうした挨拶を必要としないのかもしれない。むしろ、知らない振りする礼儀なるものがあるのかもしれない。

かれこれ50年程前のこと。カトリックの国ブラジルから来日したばかりの神父が、東京の繁華街で行き会う人ごとに「こんにちは」「こんにちは」と声を掛けて歩いたという。誰も反応してくれず、寂しい思いをしたと語ってくれたことがある。当時、なぜ通りがかりの人にわざわざ挨拶をするのかと不思議に思った。神父ということでブラジルでは誰からでも声をかけられていたからなのだろうと勝手な思いで神父の話を聞いていた。ところが先日、サンパウロ市内に住んでいる友人が、ネットに書き込まれていたという地方出身の女性の話を紹介してくれた。地方の町から出てきてサンパウロの町で生活を始めたところ、行き交う人々が挨拶しあうことがないことに驚いたというのである。その女性は小さい頃から父親に行違う人には挨拶をしなさいと教えられて育ったという。大都会サンパウロのマンションに住む友人は、通りすがりの人に挨拶するのはコミュニティ意識を持つマンション内の住民程度だと言ってきた。東京でも同じマンションの住民は擦れ違う時には、「こんにちは」程度の挨拶は交わしている。

 

都市化による挨拶の変容

かつて、日本人が村落共同体の中で生活していた時代には、村で出会う人と挨拶を交わすのが礼儀だった。村落社会でお互いに挨拶を交わすことは、良好な人間関係を保ち、村落社会の共同体意識を高めてコミュニティ統合を維持していくという社会的機能を果たしていた。村落社会では共同作業や相互依存性が常に求められており、日常のコミュニケーションを通じて地域社会の凝集性が高められていたからである。そこで、村落社会の付き合いの第一は、他人に遭ったり見かけたりしたときには、必ず声をかけ、挨拶するようになった。見知らぬ人のいない村内では、挨拶しないことが許されない行動となる。挨拶は村の住民として一人前であるかどうかを見極める基準のひとつとされ、幼児期からしつけを通じて身につけさせられた。

ところが、1950年代半ばから産業化と都市化が進展するようになると、農村では過疎化が進み、村落共同体での付き合いが後退した。と同時に、都市化に伴い新興住宅地や高層住宅が出現すると、隣近所の付き合いは希薄となり、かつてのような挨拶は必要とはされなくなったのだ。つまり、共同作業や相互依存性が近隣住民に求められる必要性がなくなり、電車、カフェ、エレベーターなどを通じて都市社会のあらゆる場所で不特定多数の人との接触が生まれたのである。行き交う人が増えたからといっても、その行き交う人が必ずしも知り合いではない。その結果、都市の生活ではかつてのような頻繁な挨拶行動は必ずしも必要でなくなった。他人を無視はしないが、干渉もしないという程度の挨拶が、都会の挨拶となった。

 

むすび

要するに、都会での知らない振りは、それ以上は立ち入らないという合意で、せいぜい簡単な挨拶に止めおくということなのだ。

パリでもミラノでも、例えば単なる顔見知りのお向かいの奥さんに「おはよう」といいはするが、この挨拶をきっかけに会話へと展開することはない。東京に住む40歳代の男性は、マンション内で住民の人とすれ違ったりすると、なるべく挨拶をしないようにするという。それは、挨拶を切っ掛けに会話に発展しないようにするためだという。確かに地域的な違いはあるだろうが、こうした知らない素振りはどこの都会でも合意事項なのではないだろうか。日本人が冷たいのではない。

 

2023・12・3記