文化・社会よもやま話

新旧大陸10ケ国余を巡った社会人類学者の文化あれこれ

「傘空祭り」という文化伝播

「傘空祭り」という文化伝播

 

日本全国、とりわけ関東地方の有料無料の庭園や公園の10カ所以上で、「アンブレラスカイ(傘空祭り)」と銘打ったフェスティバルが4月から6月にかけて開催されている。梅雨の季節にアジサイを愛でるというのが開催者側の大方共通している意図のようだ。アジサイの花が並ぶ小道の空一面につるしたカラフルな雨傘を楽しんでもらおうという演出だ。例えば埼玉県飯能市のムーミンバレーパークでは、そこに一歩踏み入れた瞬間から多数の傘が織りなす幻想的な世界が広がる。バラで有名な神奈川県の横浜イングリッシュガーデンは、5月から6月にかけて「アジサイフェスティバル」を開催し、およそ50メートルに及ぶバラのトンネル内にアジサイの鉢と雨傘を展示している。バラのトンネルに色鮮やかな多数のアジサイの鉢が並べて置かれその上空には花の形をした雨傘が多数つるされ、梅雨の季節を楽しく演出している。

アジサイとは関係ない「アンブレラスカイ」を開催するところもある。群馬県の甘楽町立公園「甘楽総合公園」では、「かんらde アンブレラスカイ」と称する催しを4月中旬頃から6月初めころまで開催している。480本に及ぶ7色のカラフルな雨傘が全長90メートルにわたって空を彩ると同時に、傘は地面にも美しくその影を落とし、視線の上と下に広がる光景は訪れた者を楽しませてくれる。

 要するに、梅雨の季節に観光客を呼び寄せる催しの一つとして空を雨傘で埋める「アンブレラスカイ」を開催していると言える。日本国中に広がるこの「アンブレラスカイ」の催しはどこから始まったのだろうかとふと思った。そこで調べてみると、ポルトガル中部のアヴェイロ(Aveiro)地方の人口4万6000人ほどの小さな町アーゲダ(Águeda)で、2012年8月に始まった“Umbrella Sky Project”といわれる傘空祭りが、その起源だと分かった。

 

アーゲダ市内の6カ所の通りで1万本に及ぶ雨傘が空に向かって広げられる傘空祭りである。なかでも16世紀のポルトガルの著名な詩人カモンエスの名を冠したルイス・デ・カモンエス通り(Rua Luís de Camões)の傘空祭りが有名だ。カモンエス通りは全長500メートルほどのショピング街で、ヨーロッパならではの整然とした街並みに石畳みの通路が続いている。この通りの上空5メートルほどのところに、色とりどりの傘が無数に浮かび、アーゲダの古い街並みにカラフルな雰囲気をもたらしている。傘は鮮やかな原色のものから半透明なものまで様々で、合計3000本にもなるという。晴天の日の光景は格別で、澄み切った青空の日差しが傘を透過し、左右に建物が立ち並んだ街路に光が万華鏡のように映し出される。CNNは、傘で飾られたアーゲダのカモエンス通りを世界で最も美しい通りの一つとして紹介している。またArchitectural Digestは、アーゲダを世界で最も美しい街とさえ評価している。さらに、2023年にはこの傘空祭りが、観光部門でポルトガルツーリズム賞を受賞し、以来アーゲダの傘空祭りは、ますます注目されるようになった。7月1日から9月30日まで開催される傘空祭りは、ヨーロッパのヴァカンスの時期に重なっている。

さて、このアーゲダの傘空祭りが、開催されるようになった背景には、2006年から始まったアーゲダの芸術祭アジターゲダ (Agitágueda, Agitar(揺り動かす)とÁguedaを合わせた造語)がある。アーゲダ芸術祭が7月に開催されるため、参加者の日射病や熱中症が心配される。こうした問題を避ける目的で当時の市長が、芸術祭が開催される通りや会場を傘で覆うことを提案した。市長は、傘を広げて空間移動するメアリポピンズから着想を得たという。傘で覆われた通りを設置したことによって夏のアーゲダ芸術祭は、多数の観光客で賑わうようになった。2024年の統計によれば、23日間の芸術祭に足を運んだ観光客は94万人に及んでいる。またこの都市芸術祭の期間に、アーゲダを訪れた国内外のアーティストやバンドは、2006年以後で総数1500人を超えている。

7月4日から26日まで開催される2026年の都市芸術祭では、音楽コンサート、ストリートエンターテインメント、ヨガの実演やサイクリングのようなスポーツ、壁画、フォークソング、手工芸品展示会、花火大会などが無料で開催される。さらに建物と建物の間にある狭い階段や街路に置かれたベンチにも絵が描かれたりする。こうした芸術活動が空に並んだカラフルな傘の下で行われるのである。

 

 ポルトガルの傘空祭りは、フランス、スペイン、バーレーン、米国、日本といった諸国に積極的に紹介され、それぞれの地で固有の展開をみせている。いわば傘空祭りというポルトガル文化の伝播である。とはいえ、日本とポルトガルの傘空祭りを比べてみると大きな相違がみられる。ポルトガルでは、傘であってもそれは日除けに使用され、日本ではアジサイの季節に梅雨を凌ぐ象徴として使用されている。両者の傘の意味は全く正反対であるが、いずれも傘空祭りの主人公としての役割は担っている。文化の伝播には、このように時としてもともと意図された本来の機能は隅に追いやられ、伝播された地の文化や風土に応える形で再生される例もあることが判る。                     (2069字)

                                 2026年7月8日

 

参考文献

https://portugalwithkids.pt/place/umbrella-sky-project

https://www.cm-agueda.pt/viver/comunicacao/noticias-agueda/noticia/rua-luis-de-camoes-entre-as-mais-bonitas-do-mundo

https://agitagueda.com/conseito/

https://www.oroshistadium.com/blog/umbrella-sky/

https://www.seiburailway.jp/file.jsp?id=27566

https://www.veltra.com/jp/yokka/article/umbrella-sky-spot/

その他

日本人の観るアジサイと西洋人の観るアジサイ

 アジサイという言葉を耳にすると思い出す光景がある。かれこれ50年以上も前のことであるが、ブラジル南部のリオグランデドスル州の州都ポルトアレグレからバスで3時間程の地方都市グラマドに旅行した折に目にした景色である。バスの中で寝入っていたが、ふと目が覚めると青と白の世界が目に飛び込んできた。道路の両側に青と白のアジサイが一斉に咲いていた。晴天の中のアジサイの花である。大空をバックに道路の両側に咲いたアジサイの鮮やかさに魅了され、眠気が飛んでしまった。

 今でこそ日本ではアジサイは贈り物として使われる花にもなっているが、当時はアジサイは梅雨の頃に咲く花ということからどちらかと言えば暗いイメージの花だった。そんなところでグラマドの明るくて眩しいアジサイの花を目にしたのであった。

 

 そもそも「アジサイ」という言葉はいつ頃から使用されてきたのだろうか。物の本によれば中国から文字が日本に渡来する以前、「アヅサヰ」(集まるを「あづ」、接続語と「さ」、青あるいは藍の「あゐ」から)といわれていたようである。4世紀から5世紀にかけて漢字が伝わると、漢字が用いられるようになった。最古の記録として『万葉集』に出てくる「味狭藍」と「安治佐為」がある。現存する最古の漢字辞典とされる『新撰字鏡』には「安知左井」とある。あるいは万葉仮名で「あぢさゐ」という表記もされていたようである。要するに統一された表記文字は存在していなかったということである。「紫陽花」の表記が登場するのは、平安中期の歌人で学者の源順(みなもとのしたごう)が辞書『和名類聚抄』(937年頃)に用いた折である。辞書を編纂するにあたって源順は漢字表記の必要性に迫られた。日本が原産地ではあるが、当時アジサイを中国伝来と捉えていた源順は、白楽天の詩の中の「紫陽花」を用いた。こうして「紫陽花」をアジサイと認識していなくて判らないような漢字が当てはめられることになった。以後時と共にかな表記と漢字表記が並行しながら用いられていくことになった。

 

 多様な表記で歌われたり言及されたりしたアジサイは、決して注目される花木ではなかったようだ。万葉集では2首、平安期の歌集では3首、鎌倉期には15首、室町期には4首が歌われているにすぎないそうだ。江戸期になるとアジサイはありふれた花木として急速に普及した。幕末になるとドイツの医師で博物学者のシーボルト(P.F.・Siebold, 1796-1866年)が1823年に、長崎出島のオランダ商館の医師として来日した。帰国後シーボルトは、『フローラ・ジャポニカ』("Flora Japonica", 1870年)をヅッカリニ(Dr. J.G. Zuccarini)と共著で出版した。この図鑑には全151図が収録されており、日本の植物をヨーロッパに初めて紹介した著作となった。この中にはアジサイ17図が、詳細な記述と共に記載されている。シーボルトは日本のアジサイを詳細に記述していると同時に、実物よりも美しいとされるアジサイの画も掲載している。

 日本人には人気のなかったアジサイを広く世界に紹介することになったシーボルトであるが、彼のアジサイの分類を可能にしたのは彼の高弟であった高良斎の論文に端をはっしているとされる。また、日本の近世植物学の元祖とされる水谷豊文(1779ー1833年)は、シーボルトに大きな影響を与えた本草学者である。シーボルトの在日中に水谷豊文によってエゾアジサイがルリアジサイと名付けられ、フランスに、その後イギリスにも導入されて、西洋アジサイ(ホルテンシア)の一種として育成されている。これは、シーボルトがオタクサ(Otaksa)と名付けてヨーロッパに紹介したアジサイの一品種と考えられている。このように幕末から明治にかけてオタクサの他に「東洋のばら」とも称された品種も含め日本からヨーロッパに運ばれたアジサイの諸品種は、西洋アジサイ作出の母種となった。1903年にフランスで西洋アジサイの作出が始まり、その後ドイツでは良品の西洋アジサイが作られ、ドイツからオランダ、ベルギーなどでも次々作出が行われた。今日、西洋アジサイの品種は300種以上に上るとされる。

 

 西洋人にはアジサイの青がとても好まれたようで、この青がアジサイの価値と考えられてきたようだ。現在の西洋アジサイは華麗な花であり、青は空や海の色で、明るい希望の色ともみられる。冒頭でブラジルのグラマドのアジサイ街道(あるいは「ロマンティック街道」とも)に言及したが、まさに西洋のアジサイの世界である。グラマドはドイツ移民が開拓した町で、ドイツ人がアジサイを植生し、数年の中断時期はあったが、1958年以降、毎年アジサイ祭りを開催している。同時期にはブラジル・ラテン映画祭(Festival de Cinema Brasileiro e Latino)も開催され、グラマドはブラジルの著名な観光都市となっている。

 他方日本では、梅雨期の花のためか、陽性の花とは捉えらえてこなかった。さらにアジサイが植えられている場所に寺院が多いというのも落ち着いたあるいは陰性のイメージにつながったのではないかと思われる。どころが現代では、アジサイは植物園や園庭などにも植えられるようになり、かつ梅雨の前後の時期にも花を付ける品種が作出されており、そのイメージは西洋での明るいイメージに代わりつつある。

 画家の浜口美和(1930ー2021年)は「花は紫陽花の色と形が私をとらえる。大空のような、深い海のような藍青、形は空に輝く星の集まり、刻々と変わる色、形に造詣の神秘、自然の摂理、人生などを感じ、絵の中に生の感動を表現できたらと思う」(山本武臣『アジサイの話』154頁)と、アジサイを画く理由を述べている。このように現代では、日本でもアジサイが前向きな花と捉えられるようになり、5月になると母の日の需要に応じようと花店には多彩なアジサイの花が並ぶようになっている。

                              (2026/5/16)

 

参考資料

山本武臣『アジサイの話』八坂書房、1981年。

https://www.hanamonogatari.com/blog/1273/

https://www.shuminoengei.jp/?a=page_tn_detail&target_xml_topic_id=

その他

 

 

 

 

 

 

訪日外国人と「日本食」

訪日外国人と「日本食」

 

とある繁華街の平日の午後、部活帰りの中学生がラーメン屋の入口で順番を待って並んでいた。その列の中に紛れて並ぶ一組の外国人カップルの姿が目に入った。今では日本料理とされるラーメンは外国人が好み、人気の日本料理の上位にランキングされている。またデパ地下では、民泊の訪日外国人なのだろうか親子がコンニャクの煮物のような日本の家庭料理を2~3種類購入する姿もあった。というように今やカジュアルな日本料理を食する外国人が結構目に入るようになった。

日本円が安価な現在、訪日外国人にとり日本で日本食を食べることは自国で食するより安くなるということで、日本食レストランで寿司だ、ステーキだ、天ぷらだと高額の日本食を口にする外国人の姿も増えている。来日して初めて日本食を口にしたという外国人はかなり稀であろう。来日前にすでにある程度日本食に慣れ親しんでいるのだろうと思われる。だからこそ、狭いラーメン屋入口の前に並ぶのだろうし、デパ地下で家庭料理を購入しているのだろう。さらにSNSで獲得した情報なのかもしれないが。。。

次のような調査*がある。米国、英国、仏国、中国、韓国から来日した訪日外国人1200人を対象に、自国の日本食と日本で食した日本食は違っていたかと問うと、86.7%が「違った」と答えている。そして自国の日本食より、日本で食べた日本食の方が「おいしい」という回答者が86.2%を占めた。ということは、来日する前からある程度日本食に親しんでいたことになる。

そこで海外で日本食が提供されるようになった経緯に関心が向く。それぞれの国によって日本食レストランの誕生の経緯は異なるだろう。米国の場合は、50年代以降の日本の高度経済成長と関わっている。戦後の高度経済成長からバブル景気に伴い日本企業の米国進出が増えると、ニューヨークに支店が多く開設された。支店開設のパーティを高級ホテルで開催するとなると、そこで振舞う日本料理が求められた。さらに日本企業の対米進出が加速されると、日本のレストランのニューヨークへの進出も促された。この時に注目されるのは、トヨタ自動車や三菱商事といった日本企業がこの日本食レストランの進出に投資したことである。日本人駐在員とその家族を主要な顧客としていることもあり、日本と同じものを提供するという意図のもとに日本食の職人の多くは日本から派遣された。バブル経済が米国での日本食のこうした傾向をさらに加速させた。

1980年代になると、米国の高所得層や健康志向の人々の間で、寿司や刺身がヘルシーで洗練された食文化として受け入れられるようになった。ニューヨークやロスアンゼルスでは、和食レストランや寿司バーが次々開店し日本食のイメージが定着した。さらに、90年代に入ると、寿司だけではなく、天ぷら、うどん、ラーメンなど多くの日本料理が海外で紹介さるようになり、店舗の出店も相次いだ。同時期、日本のアニメーションやゲームの影響を受けた若者の間でハイテク日本の食文化に対する理解が広がった。しかも、世界的な健康志向により低カロリー食とされる和食が日本食の人気を支えることになった。こうして2000年代に入ると長寿の秘訣は日本食にあるとして世界的な関心を集めることになった。そして2013年、和食がユネスコの無形文化遺産に登録され、日本の伝統的な食文化が世界に認められることになった。2015年のミラノ万博では日本館の日本食が人気になったことからもわかるように、日本食は世界的なブームとなった。これに伴い2016年には、訪日外国人観光客数が2000万人に迫っている。因みにコロナ禍を経た現在(2025年)、訪日観光客数は4000万人を超えている。こうした日本食の歴史的状況を踏まえて得られたのが先述の外国人観光客の日本食に対する反応である。

この外国人観光客の9割以上(94.1%)が「日本食が好き」と答えている。さらに自国で一番知られていて、最も人気があり、最も食べたい日本の料理を問うと、それは「寿司」で、食品、食材では「魚」という結果になっている。

とはいえ、そう容易に寿司や生魚が外国人に受け入れられるようになったとは思えない。生魚に対する疑念がそれぞれの国で持たれたこともあろう。そんな中で誕生するのが、今日「西洋寿司」と呼ばれる、すし飯を外側にして焼きのりを内側にして巻いたカリフォルニアロールに代表される巻き寿司である。

西洋寿司が誕生したのは、1963年にカリフォルニアのリトルトウキョウの日本人が考案した海苔巻きに始まる。巻き寿司の具材にゆでたカニの脚身(あるいはカニ風味かまぼこ)、アボカド、マヨネーズを使用し、外側を白ゴマあるいはトビコで覆った。海苔に慣れていないアメリカ人に対応するために、海苔の外側に酢飯を巻きさらに白ゴマやトビコを巻いたもので、80年代までにアメリカ全土に普及し、日本にも逆輸入されている。

アメリカで誕生した寿司カリフォルニアロールを基盤としてその他の具材を加えた多数の西洋巻き寿司が各地で誕生した。例えば、レインボーロール(カリフォルニアロールの上にマグロ、サーモン、白身魚、エビ、アボカド、アナゴを巻く)、キャタピラロール(カリフォルニアロールの上にアボカドだけを乗せたもの)、アラスカロール(カリフォルニアロールの上に生(なま)またはスモークサーモンを乗せたもの)、ブリティッシュ・コロンビアロール(焼いたサーモンの皮、サーモンの身、キュウリにスイートソースをかけ、外側をトビコで覆う)、シアトルロール(生(なま)またはスモークサーモン、キュウリ、アボカドを巻く)、ファイアロール(エビ天ぷら、スパイシーツナ、カニカマボコ、スパイシーソース)など、北米諸国に誕生した西洋巻き寿司である。

以上のように日本の巻き寿司の概念を越えた西洋巻き寿司の誕生である。従来の文化の担い手に代わる新しい成員が登場すると、多くの場合、従来とは異なる新たな文化が誕生することになる。訪日外国人は日本で食する日本食とは異なる「日本食」をすでに体験していると思われる。西洋巻き寿司は新しい寿司文化誕生のひとつの事例と考えられるのではないだろうか。                           (20498字)

2026.4.12

  • 農林中央金庫の2023年3月の調査による。

https://www.nochubank.or.jp/effprts/pds/reseach_2023_0/.pdf

 

参考資料

松井剛「ニューヨーク市における日本料理レストランの歴史」『マーケティングジャーナル』

   Vol.42 No.4(2023), 16-26.

https://foodmedia.tenpos.com/management/menu/45922/

https://www.digima-japan.com/knowhow/world/6775.php

その他

新しい抹茶文化の形成か

新しい抹茶文化の形成か

 

抹茶の新しい消費者

家電量販店内の一角に抹茶を茶筅と一緒に販売しているコーナーを先日目にした。抹茶と茶道を直接繋げて理解している身にとっては、家電量販店での販売という状況に驚いた。多分外国人を顧客としているのだと思う。この経験から従来とは異なる光景が目に入ってくるようになった。デパートの食品売り場の一角には抹茶の入った黒の楽茶碗の写真を看板にしたコーナーが目に入ってきた。結構多数の若者が群がっている。観ると茶筅を持った店員がお茶を点てて何やら添加して客にサービスしている。今流行のいわゆる抹茶ラテのようだ。

 

海外の抹茶ブーム

海外ではコーヒーや紅茶と並ぶ日常飲料となった抹茶ラテは、カフェのドリンクメニューの一つとなっている。同じ光景が日本でもみられるようになったのだ。しかも、今や抹茶の飲み物だけでなく、フィナンシェ、ロールケーキ、マカロンといった抹茶を用いたスイーツもみられるようになっている。

こうした抹茶ブームの背景には海外における近年の日本ブームがあるようだ。2000年代頃、寿司などの和食が海外で知られるようになった。これに伴い緑茶(green tea)も知られるようになり、和食や緑茶はヘルシーなイメージで注目されるようになった。さらに2013年には、和食がユネスコの無形文化遺産に登録され、和食は体に良いというイメージと共に普及することになった。2010年にインスタグラムがリリースされたことで、海外メディアやインフルエンサーがSNSを通じて抹茶をシェアする機会が増えた。こうしたことに伴い、抹茶を含む緑茶の海外需要が増加し、農林水産省のデーターによれば、2013年にはおよそ2900トンだった緑茶の年間輸出量が2019年にはおよそ5100トンに、さらに2021年にはおよそ6100トンと、2013年の倍の輸出量となっている。最大の輸出先は米国である。

 

抹茶ブームの背景

海外で抹茶が人気となった背景としていくつかのことを指摘することができる。まず第1に、抹茶にはカテキンや食物繊維、テアニンといった成分が含まれており、健康志向の人々に支持されているということである。第2に、抹茶の爽やかなグリーンが、人気の理由の一つとなっているということである。透明なカップやグラスに注ぐと美しく写真映えすることから、流行に敏感な海外のインフルエンサーが抹茶ドリンクの写真をSNSにアップすることで、ユーザーに影響を与えているということである。第3に、ラーメンに寿司、焼肉といった食べ物や、アニメーション、漫画、ゲームなど、日本の文化に興味のある外国人の抹茶への興味にも繋がっているということができる。そして最後に、抹茶はパウダーなので、アイスクリームやヨーグルト、ケーキなどに振りかけたり、飲み物や料理に混ぜたりとアレンジがしやすいことから、従来の食べ物にひと振り加えることで新鮮味を加えることが容易にできるということである。

 

日本での抹茶と甘味

日本では、抹茶は茶道と結びついてきた長い歴史がある。限られた空間で数人が茶筅で点てた抹茶を静かに頂くというのが室町時代から続いてきた(わび茶の)伝統である。こうした茶道を前にして抹茶そのものを用いた菓子を考案するのは難しい。

とはいえ、日本で抹茶を利用した菓子が全く作られなかったわけではない。平安時代にかき氷が存在していたことは清少納言の『枕草子』で言及されているが、これには抹茶は使用されていない。当時は氷も甘味も貴重品で、かき氷を口にすることができた人は限られていた。その後、武士の時代になるとかき氷にきび砂糖と抹茶をかけたいわゆる宇治氷が戦国時代に、さらに宇治氷に小豆餡を加えた宇治金時が安土桃山時代から江戸時代初期に誕生している。つまり、抹茶を用いた甘味の最初が宇治氷であり、これを継いだのが宇治金時ということになろう。氷と砂糖が貴重品であり、かつ抹茶をたしなむのが武家であったことを考えると、これらを楽しむことができたのは同じ武士でも大名などの権力者ということになろう。江戸時代後期になると、氷の保存技術も向上したことから裕福な町人階級の間には宇治金時が普及していたようである。

 

製糖業の展開

こうした甘味の普及の背景には、当然のことながら砂糖の供給が関係している。砂糖は、茶と同様に遣唐使によって中国からもたらされた。日本における砂糖の最初の記録は「正倉院」の献納目録の「種々薬帖」のなかに「蔗糖」として記録(825年)があるが、当時は大変な貴重品で、ごく一部の上流階級が用いることができるもので、しかも食用としてではなく、薬として用いられた。その後鎌倉時代末頃から大陸との貿易が盛んになると砂糖の輸入も増加した。ポルトガル人が種子島に1543年に上陸すると、砂糖を原料にしたカステラやコンペイトウといった南蛮菓子がもたらされた。当時の大陸との貿易の品目の中では、砂糖は生糸、絹織物、綿織物に次ぐ重要輸入品だった。江戸時代の1623年に琉球で砂糖の製造が始められ、その後奄美大島、喜界島、徳島でもサトウキビが栽培され、甘蔗糖(蔗糖)の製造が増加したことで管轄していた薩摩藩に大きな収益をもたらした。江戸時代中期になるとサトウキビ栽培は、西南日本の気候温暖な地域で積極的に取り入れられ「和糖業」として広まった。1798年には讃岐の砂糖「和三盆」が初めて大阪の中央市場に登場している。

明治時代になり、日清戦争後台湾経済の中心として製糖業が位置づけられ、機械化された大工場による近代製糖業が確立された。日本国内にも製糖の近代工場が建設され、日本の砂糖の生産体制が整備されていくことになった。しかし、太平洋戦争に突入すると国内の砂糖不足は深刻なものとなった。そして戦後の復興とともに砂糖の供給は、順調に達成されるようになった。

 

抹茶を菓子に

明治より以前に茶を菓子類に利用していたのは前述のようにかき氷のみであった。和菓子は茶道に代表される喫茶とともに発展したことを考えると、すでに指摘したように菓子そのものに抹茶を加えて作るという発想は稀なことであったといえる。

抹茶を用いた甘味が製造されるようになるのは、20世紀になってからのことである。和菓子に抹茶を入れた最初は茶団子と推測されている。今日では多数の店で販売されている抹茶団子が最初に開発されたのは、大正時代とされている。昭和に入ると抹茶飴が、製造販売されている。さらに抹茶を用いた和菓子として定番化している抹茶羊羹も昭和に始まるが、抹茶飴よりも新しいと考えられている。

一方抹茶を用いた洋菓子が製造されるようになるのは、20世紀後半に入ってからである。ソフトクリームに抹茶を混ぜた商品(「グリーンソフト」、現在も製造販売されている)が和歌山県の老舗茶店で製造されたり、京都の和菓子店では抹茶パフェを同店の喫茶部で提供したりしている。同店は抹茶トリュフチョコ、抹茶ロールケーキといった抹茶の洋菓子も発売している。そして1980年代から90年代にかけて、大手菓子メーカーが抹茶を使用した洋菓子を次々販売したが、ブ-ムとはならなかった。そんなところ、ハーゲンダッツ・ジャパンによる今日でも発売されている抹茶フレーバーのアイスクリーム「グリーンティー」が1996年に発売された。ミニカップの「グリーンティー」は、好調な販売を記録し、世界各国でも発売されるようになった。

以上のような歴史と状況の中で登場することになったのが先述の21世紀になってからの欧米の抹茶ブームである。

 

おわりに

茶道という確立した文化をわきに置いて新たな抹茶文化を迎え入れるのは、日本では難しいことなのかもしれない。茶道の伝統に束縛されない欧米だから抹茶を新しい嗜好品として素直に取り入れることができたのではないかと思う。こうした欧米の抹茶ブームを、茶道に取り込まれていない21世紀の日本の若い世代は取り入れることができるようになったのではないだろうか。今抹茶は、日本でも新しい文化を形成しているのではないだろうか。

                                     (3238字)

                                   2026・3・6

参考文献

https://ku-food-lab.com/wp/wp-content/uploads/2021/03/(関西大学化学生命工学栄養化学研究室吉田宗弘、南方麻希「抹茶と菓子、そして抹茶スイーツ」2026年1月15日アクセス)

https://note.com/chara_abroa/n/n096524a05eb9(グローバルビジネス研究所「海外での抹茶ブーム徹底調査:人気の背景と今後の展望」2026年1月15日アクセス)

https://www.alic.go.jp/koho/kitaku03_000078.html(「砂糖の歴史(日本への伝播)」2026年1月20日アクセス)

https://www.ndl.go.jp/kaleido/entry/25/1.html(「かけ足でたどる和菓子の歴史」2026年2月20日アクセス)

https://www.maff.go.jp/j/br/aff/2204/spel_04.htm(農林水産省「日本茶の輸出」2026年2月20日アクセス)

その他

日本の祝日と世界の祝日

日本の祝日と世界の祝日

 

はじめに

数か月前のことになるが、自分の不注意からある集会の開催日を間違えてしまった。開催予定の会場に赴いたところ関係者が現れず、何があったのかと心配になった。その日は前日の日曜日が祝日であったことから、翌日の月曜日が振替休日*ということで休日になるということなのであるが、そうした認識が自分にはなかったのだ。日頃から日本は何かと休日が多いと感じていた矢先の出来事であった。

 

キリスト教徒の多い国の祝日

生活感のある海外諸国と比較して日本の祝日日数は多い傾向にあると思っていた。イタリアの祝日は12日**、フランスは11日、スペインは10日で、日本の16日(2024年)には及ばない。もっともこれらの諸国では夏に週単位でヴァカンスが取れるので、休日の総数は日本より多いことになろう。南米のブラジルも永く生活した国で、そこでの祝日は12日で、やはり日本の祝日日数には及ばない。振替休日やオセロ休日*が法によって制定されていないブラジルでは、カーニヴァルの連休こそあるが、日本の祝日日数に及ばないようだ。

祝日を設ける一般的な理由として住民の多くが信仰する宗教の教祖の誕生やその教祖の死からの復活といった宗教的理由と国の独立や憲法発布といった政治的理由といった主に2つの理由が挙げられる。ここで言及した諸国では、ブラジルを含めいずれもキリスト教徒が人口の半数以上を占めている。ただしヨーロッパ諸国では、キリスト教徒が多数を占めてはいるが、他方で「無宗教」と応える人口が、フランスでは33%、スペインでは25%、イタリアでは11%を占めており、宗教的祭日の設置にどれほどの影響をもたらしているかは不明である。また、スウエーデンを除くヨーロッパ諸国では日本同様に振替休日が導入されている。こうした状況にもかかわらず、これら諸国と比較すると日本の祝日が多数を数えているということになる。

 

イスラム教徒の多い国の祝日

次に、キリスト教と並ぶ世界3大宗教のひとつであるイスラム教徒が多数を占める地域の祝日に注目してみる。まず、イスラム教が住民の多数を占める中東諸国の祝日を見てみる。祝日についての情報のあるアラブ首長国は13日、トルコは17日、イランは27日、サウジアラビアは12日で、独立記念や革命記念、建国記念といった政治的理由による祝日の他、イスラム教に関係するムハマド生誕祭、断食明け大祭、犠牲祭といった祝日がみられる。イスラム教の諸行事を祝日にしているイランやトルコは、日本の祝日数を越えている。

アフリカもイスラム教徒が人口に占める割合が大きい国が存在する地域である。例えば、エジプトではイスラム教が国教と定められており、その祝日日数は17日、同様にイスラム教を国教とするモロッコは18日である。キリスト教徒とイスラム教徒の割合が4割から5割と比較的拮抗しているコートジボワールの祝日は17日、同様のエチオピアとナイジェリアはそれぞれ16日、キリスト教徒が6割から8割以上を占める国のガーナでは16日、同様に南アフリカでは13日、ケニアでは14日、モザンビークでは12日となっている。ということで、とりあえずは、イスラム教徒が多数を占める国が、キリスト教徒が多数を占める国よりも祝日が多数になる傾向がみられるといえよう。

 

アジア諸国の祝日

もう一つの世界3大宗教の仏教の場合はどのようになるのだろうか。そこでアジアの情報をみてみる。日本を含む15ヶ国のうち、カンボジア(22日)、シンガポール(10日)、スリランカ(25日)、タイ王国(22日)、ミャンマー連邦共和国(24日)では、仏教徒が住民の3割から9.5割を占めている。これら5か国の平均祝日日数は22.6日で、日本のそれを上回っている。カンボジアでは仏教が国教である。タイ王国では住民の95%が仏教徒という統計になっている。10日と祝日日数の少ないシンガポールでは、仏教徒は32.5%、キリスト教徒15%、イスラム教徒14%、道教徒8%、ヒンドウー教徒4%に分かれており、ベサックデー、ハリラヤ・ハジ、クリスマスというように仏教、イスラム教、キリスト教に繋がる多様な宗教の祝日が設けられている。仏教徒が多数を占める国では、祝日が多数になる傾向がみられるといったことが言えそうだ。

同じアジアでもインドネシア(17日)、バングラデシュ(13日)、パキスタン(17日)、マレーシア(16日)といった4か国では、イスラム教徒が国民の6割から9割を占めている。さらにキリスト教徒が住民の90%を占めているフィリピン(21日)、27.6%を占める韓国(17日)がある。フィリピンの祝日が多数になっているのは、政治的理由による祝日の他にキリスト教に起因する祝日に並んでイスラム教の犠牲祭や断食明けなどが祝日に設けられているためである。

興味深いのは無神論国家を標榜している中華人民共和国の祝日である。27日と祝日の日数が、中東のイランと並んで最多を数える。中華人民共和国が建国される以前から伝統的に設けられてきた祝日5から6日の他に建国記念日国慶節)とメーデー(労働節)を加えた祝日が全ての祝日となるが、このうちの5回の祝日は全て数日の連休となっており、その結果、総数27日の祝日日数となっている。数回にわたる連休を維持するために連休前の土曜日と日曜日は振替出勤日とされている。

 

独特の日本の祝日―おわりに

これまでのところ日本の祝日日数16日を超える国は、本稿で使用した参考資料に掲載された国59カ国中で17カ国のみで、とりわけ中国、イラン、イスラエルミャンマーカンボジア、フィリピンは20日以上の祝日を制定している国である。世界59カ国の祝日の平均日数は14.3日で、日本の祝日は世界の平均日数を少し上回っている。しかも日本は振替休日やオセロ休日を導入して祝日数が減じないようにしており、祝日16日は最低保証されている日数である。

こうした世界平均を上回る祝日を日本にもたらしている理由は何なのだろうか。「春分の日」と「秋分の日」は、天文観測による春分秋分が起こる春分日と秋分日が選出された日とされるとあるが、なぜこの春分秋分が起こる日が祝日になるのかわからない。もう少し調べると、明治の頃にそれぞれ春季皇霊祭と秋季皇霊祭とされていた祝日を、天文観測による事柄として祝日にしたといえるようだ。そういう意味では「みどりの日」も元々は昭和天皇の誕生日から始まっていくつかの変遷を経て「みどりの日」と「昭和の日」がそれぞれ制定されている。多くの国が建国の日を祝日に定めているように日本にも建国記念日がある。この記念日の理由を調べると神武天皇の即位の日に辿り着き、長い歴史の国であることを改めて認識させられる。年内最後の祝日になる勤労感謝の日は、一見労働者と直接関係しているかと思うが、これも宮中の行事である新嘗祭がその始まりという。天皇は政治ファクターなのかそれとも宗教ファクターなのか、判断が難しい。もちろん、「敬老の日」や「成人の日」、「憲法記念日」、「山の日」のように直接皇室とは繋がらない祝日も存在してはいる。     

ここで日本人の宗教分布を調べてみると、統計上は神道48.5%、仏教46.3%となっていることから他地域同様に祝日の設置に宗教的要因がみられるのか。例えば仏教祭典の花祭り(タイでは灌仏節、ミャンマーではタディンシュ満月)は仏教徒が多数占める国では、釈迦の誕生を祝う重要な祝日であるが、日本では祝日ではない。その他では、仏陀の入滅と同時に雨季の始まりを記念するミャンマー仏教徒にとって重要な日であるワソー満月(タイでは万仏節)、仏陀が初めて弟子に説法を行った日とされる三宝節(アサラバ・ブーチャ)等、仏教を由来とする日が祝日に設けられている。しかし、花祭りと同様にこうした仏教に由来する祝日は日本では設けられていない。

では次に、日本人の信仰する宗教の約半分を占める神道はどうだろうか。そもそも開祖も教祖も経典ももたない神道を宗教とはしない考えもある。こうした神道は日本の民族信仰とされるが、この神道に基づく祝日も仏教同様設けられていない。

以上のように特定の宗教とは関係しないが、天皇とは関係する日本の祝日の在り方は、他の諸国とはかなり異なっており日本独特の祝日の設定がされていると考えられる。

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  • 「振替休日」:祝日が日曜日などの休日と重なった場合、月曜日以降の平日を休日にして休日が減らないようにする制度で、祝日法第3条第2項による(1973年4月12日制定)。

「オセロ休日」:前日と翌日が国民の祝日に挟まれた平日が休日になる制度で、祝日法第3条第3項による(同上)。

 

**本稿で言及されている祝日の日数は全てJETROの「世界の祝祭日」(https://www.jetro.go.jp/world/holiday.html 2025年12月15日閲覧)によっている。

世界のどこにでもあるリンゴ

世界のどこにでもあるリンゴ

旬のリンゴが出回り始める9月末、今は早世もあるので美味しくいただけるかと思い買い求めたリンゴが、スカスカで水気が感じられなかった。かれこれ60年以上前のブラジルで食べたリンゴを思い出した。ブラジルのサンパウロで口にしたリンゴを前に、こんなスカスカリンゴをリンゴと思って食べるブラジル人は可哀そうと思った。当時はブラジルでリンゴは生産されてはおらず、アルゼンチンから輸入されていた。輸送手段も現在とは大きく異なる時代である。鮮度を維持する手段も限られていた。聞けば、リンゴは手で二つに割ってスプーンですくって食べるもので、病人や子供の食べ物であると教えられた。なるほど、ならばスカスカリンゴが食べやすいだろう。そんな中で、日本のシャキシャキリンゴが無性に食べたいと思ったことを思い出す。

1970年代になると、日本のリンゴ栽培の技術や栽培地選択方法等がブラジルの日系人農家に次々伝えられた。しかも同時期に、温帯気候の果物についてフランスで学んだアルジェリア人がブラジルのリンゴ栽培に貢献している。こうしたことが背景になってブラジル南部の温暖な気候のサンタカタリナ州やリオグランデドスル州さらにパラナ州の高地でのフジやガラの栽培が一挙に進められた。日本のかのシャキシャキリンゴが、日本の23倍も広い熱帯地域のブラジルの国土で食べられるようになったのだ。熱帯雨林アマゾンのマナウスの市場(いちば)にも当然のようにフジが並んでいる光景に出会った時は、少々驚きを隠せなかった。

熱帯地域でも手にすることが可能となったリンゴであるが、どのようにして世界に広まったのだろうか。

今日の全てのリンゴは中央アジアカザフスタンの野生のリンゴの子孫とされている。アジアで450万年以上にわたってリンゴは進化してきた。中央アジアの山岳地帯を越えてリンゴは、西に東に広まった。シルクロードで旅人は大きくて味のよいリンゴを袋に詰めて旅のお供とした。旅人は餌としてあるいは食べ残したリンゴを馬に食べさせたりした。リンゴの滴の形をした滑らかで堅い種は、動物に食べられても消化されずに排出される。馬に食べられれば、リンゴの種は1日60キロ以上移動できる。こうして人間や動物の移動と共にリンゴの種も運ばれ、落ちたところで若木が育ち、無数の新種のリンゴがアジアで、ヨーロッパで誕生した。リンゴは実生では結実までに時間がかかるが、他方多くの変種が誕生する。というのは、結実に必要な雄花の花粉は同じ種類のリンゴではないことから数千の変種が出現することになる。しかし、数千の新種が誕生しても、あらたな土地で全てが生き残るわけではない。そんな中で開発された方法が接ぎ木法である。

接ぎ木法は誰が発見したのかは分かっていないが、3000年以上も前の中国と古代バビロニアではすでに接ぎ木が行われていた。2種の植物の一方の植物を人為的に切断し、もう一方の植物をそこに接着して、1つの個体とすることが接ぎ木法である。このとき、上部にする植物を穂木(接穂、継穂、ほぎ、つぎほ)、切断されて下部となる植物を台木といい、これがリンゴの接ぎ木法で、リンゴの栽培法である。

この接ぎ木の知恵は、交易ルートに乗り、インド亜大陸から地中海東部に長い距離を移動し、紀元前1世紀にはリンゴ栽培とその美味なる果実は東西に広まった。

古代オリエントを統一したペルシア帝国の時代になると、帝国では果物を食する楽しみが広がった。リンゴの品種や産地の違いを言い当てるという人も出現したといわれる。西暦1世紀のギリシアでは、味わい甘く、香りも姿も魅力的なリンゴは、五感を一度に魅了し、賞賛に値するという一文を残した著述家がおり、いかにリンゴが好まれていたかが判る。

ローマ帝国が誕生すると、ギリシアやペルシアの知識や食習慣と共にリンゴも西に移動した。珍しい果実や最新の園芸技術が、東方からシルクロード沿いに次々とローマにもたらされた。ローマで栽培された果実のなかで、最も品種が多かったのはリンゴであった。あるローマの政治家によれば、ローマでは23種のリンゴが育てられていたという。ペルシアでもローマでも依然としてリンゴは贅沢品と見做されており、自身が育てたリンゴを贈ることは相手に対する最高の賛辞となった。果樹園という戸外での食事をする習慣がローマでは定着した。それによって果樹園が増えた。ローマ人は屋外にダイニングルームを造り、果樹に囲まれて食事をした。この習慣は今日のイタリアによくみられる食事のスタイルのとして残っている。

当然のことながら、リンゴ栽培はローマ帝国の属州にも広まった。イギリス海峡を渡ってグレートブリテン島ブリタンニアにもローマで栽培されていたリンゴが、野生の小粒で酸味の強いクラブアップルに代わって導入された。同様にイスパニア(現在のスペイン)やガリア(現在のブランス、ベルギー、スイス、オランダ等)にもローマ人の好むリンゴの果樹園が造られた。しかし、西ローマ帝国が衰退し始める4世紀末頃には、果樹栽培も運命をともにしている。

他方、自給自足を原則としていた修道院はリンゴ栽培を続けた。特に11世紀にフランスで発祥したシトー修道会は、スコットランド、ドイツ、スウエーデン、ポルトガル、地中海東部に進出したことで、果樹園も共に移動した。一つの果樹園で成功した接ぎ木はヨーロッパ各地のシトー会が共有したことで、修道会全体の果樹栽培が進むことになった。

西ローマ帝国が滅亡した後、イスラム帝国が拡大しイベリア半島を支配した。新しくつくられた果樹の品種が各地の環境に適応していくなかで、園芸技術の中心地となったのは、イベリア半島のアンダルシアであった。とりわけトレドとセヴィーリャには、イスラム君主スルタンにより洗練された庭園がつくられた。太古の世界の果樹栽培の知識を維持しただけでなく、新たな知識、技術を発展させた。

13世紀にはヨーロッパでリンゴ栽培が再度盛んに栽培されるようになった。この時代になると庶民にもリンゴは普及した。故郷のお気に入りの品種をいとおしむ住民はリンゴを持ち出し、海を越えて地球上のあらゆる土地にリンゴの種は広まることになった。16世紀から17世紀にかけてヨ-ロッパから新大陸アメリカに移住する人々が増えると、新世界にリンゴが持ち込まれた。

アメリカの東海岸沿いにリンゴが持ち込まれたが、接ぎ木のリンゴ栽培は成功しなかった。リンゴの種をそのまま蒔いた果樹園が中西部や太平洋岸に出現したのは19世紀であった。ワシントン州アメリカでリンゴの最大の生産地となった。それは1920年代のことである。

南アメリカにもスペインやポルトガルの探検家や入植者によってリンゴが持ち込まれ、根を下ろした。1835年に、チャールズ・ダーウィンはチリの海岸沿いに自生するリンゴを発見している。当時リンゴは、アルゼンチンやチリの渓谷に根付いていた。アルゼンチン、チリ、ブラジルがアメリカやヨーロッパに大規模なリンゴ輸出を行うようになるのは、1980年代のことである。南半球は北半球とは季節が反対なので、北半球が冬の間に南米のリンゴ市場を海外に拡大することになった。

 南アフリカには、ケープ植民地を建設したオランダ人のヤン・ファン・リーベックが1654年にリンゴを持ち込み、移住者に栽培させている。19世紀にはイギリス帝国の植民地政治家であるセシル・ジョン・ローズがケープタウンのブドウ畑がアブラムシによって壊滅的状態になったことを機にイギリス植民地としてリンゴ栽培に着手している。

 オーストラリアに最初にリンゴがもたらされたのは、1788年のイギリス植民地の建設と同時で、リンゴが植林されている。同時にタスマニアにもリンゴが植えられ、タスマニア島は「リンゴ島」という愛称で呼ばれることもある。同時期、ニュージーランドでもリンゴ栽培が開始されている。南アメリカと同様に北半球と気候が反対となることから、アメリカ、カナダ、ヨーロッパにリンゴを供給することで1920年代にオーストラリアとニュージーランドのリンゴ産業は急速に発展した。

 以上のように数千年にわたりリンゴは温帯地域で移動を続けてきた。中央アジアから古代ヨーロッパへ向かい、植民地建設と共にアメリカ大陸やアフリカ大陸、さらにオセアニアに渡った。結果的に現代では、季節を問わずリンゴを口にすることができるようになった。同時に、その長い歴史の中で「エデンの園」や「ウイリアム・テル」のようなリンゴに纏わる様々な伝説も誕生させてきた。

 

 

参考文献

エリカ・ジャニク『リンゴの歴史』原書房、2015年。

マーシャ・ライス『リンゴの文化誌』原書房、2022年。

その他

歴史と文化は息づく―イスラム教国と北欧女性の姿

イスラム教国と女性のスポーツ
 東京で開催されていた世界陸上競技選手権大会をテレビで観戦していて気になったことがあった。南北アメリカカリブ海地域、ヨーロッパ諸国の女子選手が多数参加する競技が行われているのに、中東やアフリカのイスラム教国*出身の女子選手がなかなか目に入ってこなかった。選手権大会ではあるが、予選の様子も放映されているのだから、イスラム教国出身の女子選手が目に入ってもいいはずである。すべての競技を観ているわけではないので、自分の印象が正しいとは限らないが、少なくともイスラム教国の女子選手が多数競技に参加しているとは思えなかった。こんなことを思いながら思い出したことがある。もうかれこれ30年も前のことだが、ロンドンの動物園で頭から足元まで体全体を布ですっぽり覆ったイスラム教徒の女性のグループに出会い、カメラのシャッターを押してくれるよう頼まれたことがあった。あの女性たちはスポーツする時はどんな服装をするのか、当時を思い出しながらふと思った。
 保守的なイスラム教徒の社会では、女性は親族以外の男性に手と顔以外に身体を見せることが禁じられているということである。従って女子競技の場合、競技にかかわる選手、審判、役員、観客等全てが女性であることが求められるという。このためイスラム教国の女性が国際的なスポーツ大会に参加できる機会は限られることになる。そこで例えば、イラン・イスラム共和国が中心となって開催したイスラム諸国の女子スポーツ選手による国際総合競技会がある。この競技会は、イラン大統領の娘の奮闘により1993年以来4年毎に開催されるようになったものである。4回までいずれもイランで開催されたが、2010年の第5回は中止された。以来、今日に至っている。

イスラム教国も色々
 今回の東京世界陸上の女子競技の一種目である800メートルの予選に参加した選手は57名で、このうち10名がモロッコ王国ケニア共和国エチオピア連邦民主共和国バーレーン王国といったイスラム教国から参加した女子選手であった。しかも、800メートル競走で優勝したのはケニアの選手であった。イスラム教国の女性が国際競技に参加し活躍しているということを改めて認識した。
 800メートル競技に参加した選手の国ケニアエチオピアイスラム教国とはいえ、国民の6割以上がキリスト教徒でもあるので、参加した選手がイスラム教徒であるかどうかは不明である。北アフリカモロッコ王国は、国教をイスラム教とする国ではあるが、2004年に新家庭法を制定して女性の地位を変化させており、しかもイスラム教以外にキリスト教ユダヤ教の信仰も認めている。というようにいずれの国も厳格なイスラム教の国ではないように思われる。世界3大宗教の一つとされるイスラム教は、世界の多くの国で信仰されているが、国によってイスラム経典をどの程度厳格に守っていくかはかなり多様性に富んでいるのが実情である。世界経済フォーラムが発表した世界148国のジェンダー・キャップ(Global Gender Gap Report 2025)一覧の中で、恣意的ではあるがギャップが90位以上の国々を見てみると、ほとんどの国では国民のある程度の割合をイスラム教徒が占めている国である。この90位からジェンダー・ギャップが最も大きい148位までの国々の中には韓国(101位)、中国(103位)、日本(118位)、ブータン(119位)といった仏教が影響を与えている国も名を連ねており、ジェンダー・ギャップが高い国は、当然のことながらイスラム教国のみではないことが判る。そこで、ジェンダー・ギャップが最も大きい国の148番目の国から順に反対からみると次のようになる。148位はパキスタン・イスラム共和国、147位はスーダン共和国、146位はチャド共和国、145位はイラン・イスラム共和国、144位はギニア共和国と、いずれも統計上はイスラム教徒が国民の半数以上を占める国々である。
 イスラム教の社会文化的影響は多様で、女性をある一定の社会的位置や役割に留めおく伝統は国による違いはあるが、ギャップが高い国ではイスラム教の文化が現実の生活の中で依然機能していると言えるのではないだろうか。

ジェンダー・ギャップの小さい北欧
 ここで反対に、ジェンダー・ギャップが小さい国を見てみてみよう。ジェンダー・ギャップの小さい諸国は、北欧諸国である。ギャップの少ない順に1位のアイスランド共和国、2位のフィンランド共和国、3位のノルウェー王国、4位の英国(通称)、5位のニュージーランド、6位のスウェーデン王国となる。英国、ニュージーランドを除いた4か国が、いわゆる北欧と言われる諸国である。さらに14位のデンマーク王国を加えてると北欧5か国となる**。

ヴァイキング時代の女性
 北欧諸国がイスラム教国とは対照的にジェンダー・ギャップが少ない理由はなぜなのだろうか。勝手な思い付きからいえば、8世紀から11世紀にかけて活躍したヴァイキング生活様式と関係があるのではないかと思う。ヴァイキングの故地はスカンディナヴィア半島である。現在のノルウェーとスウエーデンのある半島である。スカゲラ海峡を挟んでデンマークがあるユトランド半島ヴァイキングの故地である。ヴァイキングは常に域外で略奪をしていたのではなく、故地に定住して家族と共に農業、漁業、狩猟に勤しんでいた。詳しいことはよく分かっていないが、域外に出て交易や略奪をするようになったのは、生業を営んでいた地の自然環境の変化や人口数の変化などが指摘されている。いずれにしてもある時期になると、家長は域外に出て家畜を飼育する共同住宅ロングハウスと呼ばれる家を空けることになる。家長のいない家庭を守るのは、女性、妻ということになる。家の鍵を持ち、財産や土地の管理する権利を与えられていたようだ。また時には市場で物品を売買するといった経済活動に直接関わることもあった。家長の夫に不幸があった場合、妻は夫の財産を相続し、一家の主として独立した生活を送る権利も有していた。このような女性の環境を考えると女性は自立した生活をせざるを得なかったし、それが可能であったのだ。

ヴァイキングの活躍がもたらしたこと
 他方、航海に出たヴァイキングは交易や探検をすすめるうちに北大西洋上に面した土地に植民地あるいは入植地を造っていた。それが、今日のアイスランドであり、イングランドの一部であったり、フランスのノルマンディーであり、北アメリカ大西洋岸のマルクランドである。またヴァイキングの故地であるスカンディナヴィア半島やユトランド半島から南方にも移動してシチリア王国ビザンティン帝国をも一時的に支配をしている。男性のヴァイキングと同様の行動をする女性のヴァイキングが出現したりしているし、植民地や移住地でも家庭を守る女性たちが存在していたと考えてもおかしなことではない。
 以上のように、家父長制下で家長に頼る生活を余儀なくされていたのではなく、家庭を維持するために男性から独立して自身の才覚で家庭を切り盛りするのが北欧の女性が置かれた環境だったと考えられる。ヴァイキングが活躍した時代から21世紀の今日まで11世紀を経ているが、女性が男性に依存することなく生活することが文化の中に息づいているといえよう。いつまで影響を与えたかはわからないが、伝統として男女の格差を生みにくくしてきた結果であろう。1850年アイスランドは、世界初の無条件の平等の相続権を認めている。こうした歴史的結果が、世界経済フォーラムが調査作成した世界ジェンダー・ギャップ一覧で、ギャップの少ない上位国として位置づけられていといえよう。
 以上のように両極端のイスラム文化の国と北欧諸国を例にして思うことは、歴史や伝統文化は変化しながらも今も今後も住民の生活に影響を与えるという極めて当たり前のことを改めて認識させられたということである。(3394字)

イスラム教国とイスラム国家とは次のように区別する。
イスラム教国:イスラム教に関連が深い国。ムスリムが人口の比較的多数を
占めている。イスラム国家にもなる。
イスラム国家:イスラム教によって統治される国家。

**CIA World Factbookはこの5か国を北欧諸国としている。また一般的なヨーロッパ諸国の認識も同様である。さらに1952年設立された北欧理事会(Nordic Council)の加盟国はスウエーデン、デンマークフィンランドノルウェーアイスランドの5か国で、さらに自治地域であるフェロー諸島、グリーランド、オーランド諸島が加盟している。

参考文献
加藤秀一『知らないと恥ずかしいジェンダー入門』朝日新聞社、2006年。
江原由美子山田昌弘ジェンダー社会学入門』岩波書店、2008年。
荒 正人『ヴァイキング中公新書、1968年。
ウルフ,キルステン『ヴァイキングの日常生活―24の仕事と生活でたどる1日』田口未和訳、原書房、2025年。
河田尚子編著『イスラームと女性』(イスラーム信仰叢書7)国書刊行会平成23年
ズィーバー・ミール=ホセイニー『イスラームジェンダーー現代イランの宗教論争』
明石書店、2004年。
その他