光に対する感性の違いは?
かれこれ40年程前に目にした光景である。ブラジル、サンパウロで研究を始めた頃、スライドを用いた授業に参加する機会があった。今ではデジタルプロジェクターが使用されるが、当時はスライド映写機の時代であった。教室前面のスクリーンに向かって受講者が順次席につく。講義を始める前に担当教員はカーテンを引き講義室の照明を消す。そして映像がスクリーンに投影される。すると受講者は教員の説明を聞きながら、一斉にノートをとりだしたのである。映写機からもれるわずかな光の中でノートをとる光景に驚かされた。日本の視聴覚室では、教員は適当なところで投影を中断して照明を点け、そこで一度説明をし、ノートをとる機会を作る、そしてまた部屋を暗くしてスライドの投影を続けたのではなかったのかと思う。このサンパウロでのスライドの授業を前にして、ブラジルは結構乱暴な授業をするなと思った。しかし、その後人類学の情報を得るうちに、サンパウロのスライドの授業の光景は人種(*)とそれなりの関係があることを理解し、決して乱暴な授業ではなかったのだと反省した。
現在、米国のバイデン大統領が登場するテレビの映像を観ていると、彼は屋外ではサングラスを着用したままで仕事に対応している。実はサンパウロの暗闇でのノート書きは、このバイデン大統領のサングラス姿と繋がる光景だったのだ。つまり、人種によって異なる体内のメラニン色素の含有量が、光に対する感度の違いをもたらしていることがサンパウロの体験で得心した。
濃い肌の色は紫外線を遮断し、肌へのダメージを抑える働きがあるが、反対に、紫外線を防御するメラニン色素が少ない肌の白い所謂白人は、紫外線による肌へのダメージを受けやすいことは知られている。これと同じことが瞳(虹彩)の色の違いによっても起こる。虹彩は外からの光の量を調整して収縮する目の調節器官で、肌同様に紫外線の影響を受ける。しかも瞳の色と肌の色は相関しており、メラニン色素を多く含む黒い目の色の方が、明るい眼の色よりも紫外線からのダメージを受けにくい。虹彩の色が薄いと皮膚と同様に目の中に入ってくる紫外線の量が増えるので、虹彩の色の薄い欧米人は紫外線を過剰に浴びるリスクが高くなる。一度浴びた紫外線は年々蓄積され、加齢に伴い目にも皮膚にも疾患が生じる可能性が高くなる。反対に虹彩の明るい持ち主の白人は、照度が低くても対象物の認識が黄色人や黒人より容易ということになる。
サンパウロにも移民の国米国同様に、イタリア、スペイン、ポルトガル、ドイツ、フランス、スイス、ハンガリーなどなどのヨーロッパ移民が、奴隷制度廃止後に労働力として多数導入されている。先のスライド教室の事例は、まさにこれらヨーロッパ移民の子孫たちの光景でもある。たまたまそこに居合わせたアジア人が暗がりの中ではノートをとることができないということを体験したのだ。サンパウロの場合とは反対に光が強い場面では、米国のバイデン大統領のサングラスのように紫外線から目を保護する対策をとることになる。オーストラリアではオゾン層が薄くなったために子供達にサングラスの着用を義務付けている(**)。
メラニン色素の割合の違いがもたらす光線に対する感度の違いは、欧米と日本の照明器具の違いによく表れている。欧米では、間接照明が主流で、オフィスの明るさは300ルクス程度にするという。日本では蛍光灯のような直接照明が依然好まれ、オフィスの明るさは700から1000ルクスと言われる。同じ照度下なら日本人より明るいと感じる白人は、直接照明の下での寛ぎは難しいようだ。こんな話を聞いたことがある。イギリス人と日本人の二人の友人が、日本で温泉に浸かった後、休憩室で一休みしようと横になった。ところが、イギリス人の友人は天井の灯りが眩しくてリラックスできないと嘆いたという。ということは、同じ光景を見ていても、その光景を明るく感知する欧米人に対し日本人は暗い光景と感知する可能性がある。
印象派絵画の出発の絵となったクロード・モネの「印象・日の出」を思い出す。未だ本物を観る機会はないが、美術史の本に掲載されているモネの絵は、日が昇ってくる港の様子を描いているのだが、何となく全体がくすんでいる。モネは輪郭のはっきりした光景を描いたのかもしれない。ところが、アジア人にはくすんで見える。こんなことを思っていると、照明を変化させたという「日の出」の絵を掲載した記事に出会った。描かれた事物のひとつひとつの輪郭がはっきりしていた。この2つの「日の出」の絵は、まさにアジア人が観る「日の出」と欧米人が観る「日の出」なのかもしれない。
旅先で目にする砂浜と海の色のコントラストも白人とアジア人では違って目に映っているのだろう。誤解を招くような大きな違いではないだろうが、両者、あるいはアフリカ系の人も含めて3者が目にする同一の景色はそれぞれ異なっているのだ。しかし、それらを相互に感知することはできない。桜吹雪が舞う季節を迎えた東京で、白人や黒人が目にする花吹雪はどのような景色に見えているのか興味がそそられる。
(*)ここでは、18世紀から20世紀半ば頃までよく用いられ偏見や差別につながった人種の概念とは区別する。現生人類はヒト科ヒト亜科ヒト属のホモサピエンスの一種のみであり、白人(コーカソイド)、黒人(ネグロイド)、黄色人(モンゴロイド)といった人種の分類はいわば品種のようなものと捉えている。
(**)20世紀末に指摘されるようになった地球を覆うオゾン層の後退に伴い地球上に注がれる紫外線の増加によって白内障や皮膚がんといった健康被害のリスクが報告されており、北欧やオーストラリアでは子供の外出には長袖シャツにサングラスや帽子の着用、日焼け止めの使用などの対応策を義務付けている。
(2382字)
2023・4・5
日差しとイギリス人
日差しとイギリス人
日差しが春めいてくると、思い出される会話がある。
もうかれこれ10年以上になるが、オックスフォード大学の研究所で数か月過ごした時のことである。なかなか日差しに恵まれない日が続き、やっと気持ちよい日差しを感じられるようになったある月曜日の朝、研究所に行くためにバス停にいると、研究所の所長が丁度車で通りかかり、同乗させてくれた。そこでかけられた最初の言葉は、「昨日の日差し、楽しんだかい?」 というものであった。こういう挨拶がオックスフォードの挨拶かと勝手に思った私は、「はい、楽しみました」と無難な答えをしたつもりでいた。ところが、次に「何をして楽しんだ?」と訊かれてしまった。下宿生活者の日曜日にはこれといって特別なことはない。日差しを楽しんだといってしまった以上、何をしたか言わねばならないと焦った。そういえば、近くを流れる川まで散歩したら、そこでたまたまボートレースを見学したことを思い出した。そのことを伝えると、それは素晴らしいと言われた。たかだか休日に日差しがあっただけでこんな会話に発展するとは思ってもいなかった。「では、所長は何をして楽しまれましたか?」と訊けば、さらに会話は弾んだであろうが、当時はそこまで思い至らなかった。
4月に日本からオックスフォードに着いて以来、連日はっきりしない日が続いたので、日差しがなくて鬱陶しい毎日だと研究所の所員に愚痴を言ったら、「あなたはまだいいわよ。昨年から先月までずっと雨が降っていたのだから」と言われてしまった。やっと日差しが戻ってきたからか、研究所の職員の皆さんは外に出て、芝生の上で昼食をとりながら陽光を楽しんでいるようだった。ロンドンでも同じような光景を見たことを思い出した。紫外線を気にせず、イギリスでは日差しを浴びながらピクニック気分を、例え昼休みでも味わうのかと思った。そういえば、私が下宿していた長屋の箱庭ほどの裏庭にもバラやその他の草木が植えられていて、お隣同士が垣根越しに話をしながらの庭の手入れをしている光景をよく目にした。
先の挨拶と言い、長屋でのガーデニングと言い、日差しを浴びることを厭わないのだ。日本の紫外線対策の日除け帽を思い浮かべると、なぜイギリスの人はここまで日差しに頓着するのかと思わないでもなかった。
イギリスの日照時間はイタリアやフランスより少ない。ロンドンやマンチェスターはパリにもミラノにも及ばない。ベルリンでさえ日照時間はロンドンより長いというような数値がある。要するに、イギリスは近隣のヨーロッパ諸国より日照時間が短いのだ。そのためか、イギリス人は日差しが気になり、オックスフォードでのような挨拶が交わされるようになったのではないだろうか。しかも、日に当たっていたいのだ。そこで日差しを満喫できる方法が色々講じられてきたのではないかと思いをめぐらしてみた。
まず、ガーデニングである。ガーデニングとは、庭師を雇って庭を手入れするのではなく、
その庭の使用者自身が好きなように庭を作り上げることと理解した。17世紀にプランテーションによる新たな香辛料貿易を始めたのはオランダであったが、18世紀末には、イギリスが植民地ペナン島を胡椒港として開発して以来、植民地帝国を支える産業としての植物栽培とイギリスの風景を彩る観賞のための熱帯植物栽培がイギリス人に庭園熱をもたらした。その代表的な庭園がキュウーガーデンで、大英帝国内の植物が集められ、植栽された。英国内各地の植物園にも海外の植物が移送され、植民地植物園が出現した。19世紀にはイギリス最初の園芸協会が出現している。産業革命によって出現した中産階級が自らの庭の手入れを行うという園芸趣味の普及と重なり、ガーデニングが広がった。
日を浴びるということでは、屋外のスポーツもその代表的文化であろう。サッカー、テニス、クリケット、ボートレース、ゴルフなどといった英国で発祥した近代スポーツは、産業革命をバックに制限的とはいえルールや施設の普遍化が行われ、国内のみならず、英国植民地に普及した。こうしたスポーツは産業革命が生み出した労働者階級にも普及し、アマ、プロの違いはあるものの、すべての社会階級にスポーツが浸透した。
18世紀から19世紀の経済・社会構造に大変革をもたらした産業革命の時代に、知ってか知らずかイギリス人は陽光を浴びる習慣・文化を身に付けることになったのだ。興味深いことに、「くる病(rickets あるいは大人になって発症するのを骨軟化症esteomalacia という)」に対する対応策が動き出した時期とも重なるのだ。「くる病rickets」という病名が、生まれたのは17世紀の英国であるとされる。症状そのものはかなり昔から知られていたようで、中国では紀元前から、西洋では2世紀には知られていたようだが、くる病という病名が用いられて病気が紹介されるようになったのは、17世紀のイギリス人医師によってである。当時、ロンドンの貧民街ではくる病が「英国病」と言われるほど大流行しており、子供ための遊ぶスペースが必要という指摘はされたが、以後200年以上くる病の研究開発は行われなかった。日照時間がくる病に影響することが紹介されたのは19世紀末のことで、来日経験のあるスコットランド人の宣教師で医師のセオボールド・パーム(Theobald Adrian Palm 1848‐1929)*によってである。以来、陽光の大切さが認知されたことが、オックスフォードで体験した挨拶に繋がったと考えるのは、あまりに乱暴な解釈だろうか。
- Russell W.Chesney ”Theobald Palm and His Remarkable Observation:How the Sunshine Vitamin Came to Be Recognised” Nutrients 2012, 4, 42-51 参照
(2277字) 2023・2・22
「心臓」と「心」が同じ!?
「心臓」と「心」が同じ!?
200年前の心臓の公開
2022年9月7日に独立200周年を迎えるブラジルで、ポルトガルのポルトの教会に安置されていたブラジル初代皇帝ドン・ペドロ1世(D.Pedro I, 1798-1834)の心臓が、ブラジルに一時帰国するというニュースが報じられた。200年にわたって心臓そのものがホルマリン漬けにされて安置されてきたことに驚く。10年毎にホルマリンが交換され、今日に至っているというのだが、そもそもなぜ心臓を保管したのだろうか。
スペイン、フランス、イギリス、ローマ教会を巻き込んでの自由戦争(1828-1834)あるいは兄弟戦争とも呼ばれるポルトガル内戦が、ドン・ペドロ1世(ポルトガル王位としてはドン・ペドロ4世)と弟のドン・ミゲル(D.Miguel ,1802-1866)との間で王位継承と政体をめぐって争われた。ドン・ペドロ4世が率いた立憲王政派が勝利し、1834年、7歳の長女がドナ・マリア2世(Da.Maria II, 1819‐1853)として父を摂政にしてポルトガル王位を継いだ。しかし、ドン・ペドロ4世は娘の王位継承の4日後に、生誕の地リスボン西部のケルース王宮でその早い死を迎えた。死を前にして彼は、死後、自分の心臓がポルトに埋葬されることを望んだ。その理由は、内戦でミゲルの絶対王政派の軍隊と交戦した時にポルトに立てこもったが、町の住民が支援してくれたからというものであった。彼の遺体から心臓が取り出され、ポルトのラッパ教会に安置された。遺体のその他はリスボンのブラガンサ家のパンテオンに埋葬された。
その後、ブラガンサ家のパンテオンの彼の遺体は、ブラジル独立150年を迎えた1972年にブラジル、サンパウロのイピランガ独立記念館に移された。そしてポルトに安置されていた心臓は、ブラジル独立200年を迎えた今年、ブラジルに搬送され、首都ブラジリアのイタマラチ宮(外務省ビル)に展示された。
このニュースを知った時、そもそもなぜ心臓を取り出して、それを保存し、さらにそれをたとえ縁の地とはいえ、わざわざ搬送したのか、日本人にはその理由が判らなかった。そこでブラジルにいる友人に、ブラジル国民は嬉しいとか誇らしいとか懐かしいとか思うのか尋ねたところ、遺体である心臓を見世物にするなんて不謹慎という答えが返ってきた。大統領選を控えての政治利用と思われたところもあったようだ。
200年前と言えば、日本では江戸時代後期で、飢饉や一揆に見舞われた時代で天保の改革による幕藩政治の見直しや諸外国の艦船が次々来航する内憂外患の時代であった。このような歴史的認識はできるが、この当時の将軍や天皇、あるいは老中の遺体が公開されたとしたら(といっても火葬されているので遺体はないが。。。)、現代の日本人は懐かしいと思いながら積極的にお参りしたりするだろうか。せいぜい好奇心から見物に行く程度であろう。
心臓と心
200年も前の歴史上の人物を自分と同じ人間として思いを込めて認識できないのが、今の21世紀に生きる我々であろう。これはブラジルでも同じであろう。200年も前のドン・ペドロ1世の心臓を目にして、どこまで彼の生き様に心を通わせることができるのだろうか。彼がポルトガルで死を迎えた時代のヨーロッパの喪葬から何か判るかもしれない。
「ヨーロッパの父」と言われるフランク王国カール大帝によってヨーロッパはキリスト教圏となった。十字架にかけられたイエス・キリストが3日後に復活したとするキリスト教では、遺体は重要である。その結果、キリスト教諸国では土葬が主要な埋葬形態となった。確かに、遺体は残される。しかし、なぜ心臓が注目されるのか。
古来より心や意識は身体のどこにあるのかを哲学者や医者が関心を寄せてきた。後に多数の思想家や神学者に影響を与えることになったアリストテレスは、心臓にあると主張した。この捉え方はヨーロッパの中世でも継続していた。15世紀にフランスの本に掲載された挿絵にはハート形をした赤い心臓が、色々な場面で描かれている。例えば、心を病んでベッドに横たわるルネ王の心臓を治療のために取り出す場面が、宮廷画家のバーテルミー・デック(Barthélmey d’Eyek, 1420頃-1470)によって描かれている。この時のルネ王の心臓は赤いハート形をしている(René d’Anjou”Le livre du coeur d’amor épris du Roi René(愛に囚われし心の書)”、1457年頃のフランスの寓話小説)。また、ヴィーナスとされる女性が天上でローブの裾の中にハート形の心臓を多数集めており、地上では赤いハート形をした心臓を数人の男女がそれぞれ天のヴィーナスに向かって差し出している挿絵もある(Cristina da Pizzano”L‘epistre de Othéa a Hestor (オテアの書簡) "14世紀末のフランスの写本)。さらに、空気中に浮遊するハート形の心臓を網を広げて集めようとしている二人の女性が描かれた挿絵もある(同上)。このように、今日、愛や感情のシンボルとして心臓を意味するハート形が、14,15世紀のフランスですでに用いられていたことが判る。
17世紀になるといわば心臓信仰に繋がる出来事が起こった。フランスのカトリック修道女マルグリット・マリー・アラコク(Martguerite Marie Alacoque, 1647-1690)は数回にわたって幻視体験をしたという。イエス・キリストがマルグリットの前に現れ、自らの心臓を示すという奇跡が起きた。心臓はキリストの人類に対する愛の象徴であり、このことによってマルグリットはイエスから「聖なる御心の愛しき弟子」となったとされる。これを契機にキリスト教圏では心臓信仰が広まることになった。
赤い心臓は愛情とか熱意を表し、信仰心と布教の情熱のキリストの象徴とされる。炎の燃える赤い心臓を胸に抱いたマルグリットの像は多数残されている。キリストの胸に赤い心臓が描かれた像も多数ある。スペイン・バロックの画家のバルトロメ・エステバン・ムリーリョ(Bartolomé Esteban P. Murillo, 1617-1682 )は1670年に、羊飼いの杖を持った聖フラシスコ・ザビエルがガウンの間から炎の点いた赤い心臓を覗かせて天を仰いでいる姿を描いている*。
心臓埋葬
ヨーロッパ王家には心臓とその他の内臓、さらにその他の遺体をそれぞれ別にして王家の教会に葬るという遺体の分割埋葬が、死者への敬意を示す埋葬方法としてなされてきた。オールトリアのハプスブルク家の54人の心臓が銀の容器に入れられてアウグスティーナー教会のロレット礼拝堂に安置されているのはよく知られている。1918年に600年以上続いたハプスブルグ帝国は崩壊したが、帝国最後の皇太子オットーの分割埋葬は2011年に行われている。彼の心臓はハンガリーのパンノンハルマ大修道院に、遺体はカプツィーナ教会にそれぞれ安置されている。
聖人や王侯貴族ばかりではない。それなりの業績を残した人物の心臓埋葬の事例もある。よく知られているのはポーランドの作曲家ショパン(Fryderyk F. Chopin, 1810-1849)のそれである。パリで客死したショパンの心臓はワルシャワの教会に安置されている。帰国が叶わなかったショパンは、自分の死後はせめて心臓だけは祖国に埋葬して欲しいという言葉を残した。このことから、姉がコニャックに漬けて持ち帰って安置したという。ショパンのその他の遺体は、パリのかの有名なペール・ラシェーズの墓地に埋葬された。当時は遺体全体を持ち帰ることは難しかったのであろう。そんな時も持ち帰るのは心臓なのである。
心という精神と心臓という身体とを一体化して理解してきた結果であろう。こうした理解から心臓を特別扱いする心臓信仰に繋がってきたと考えられよう。
おわりにー日本語とヨーロッパ言語
以上のことから気づくことがある。ヨーロッパ諸言語では、「心臓」と「心」を日本語のように異なる単語として扱ってきていない。英語の‘heart’, 仏語の‘cœur’, 葡語の‘coração’という単語が意味する範囲は、日本語の「心臓」という単語とは比べられないくらい多くの意味が辞書に掲載されている。日本語では、内臓を意味する以外の心情的な意味合いはせいぜい「心臓が強い」とか「心臓だ」といった程度である。ところがヨーロッパ言語では、内臓を意味する以外に、愛情、愛、心、勇者など、心情を意味する様々な言葉が掲載されている。こんなところにヨーロッパの心臓崇拝と繋がる一側面がみてとれるのではないだろうか。ヨーロッパ言語の「心臓」が意味する心情的意義は、今の日本では「心」と同時に「ハート」という単語に該当させられよう。日本語の中で「ハート」という用語が用いられるようになったのはかなり最近のことだ。1970年に出版された『広辞苑』にはまだ収録されていない。2018年の『広辞苑』にも収録されていない。ところが、2008年のデジタル版の広辞苑にはすでに収録されている。デジタル版と紙書籍では想定される利用者の違いから収録用語の違いになっているのかもしれない。いずれにしても日本語の中に「ハート」が定着したのは21世紀になってからのようだ。つまり、日本語では、「心臓」と「心」と「ハート」はそれぞれ異なる言葉として理解されてきたのだ。この点が、ヨーロッパ言語と大いに異なるところである。
ブラジルの最初の皇帝となったドン・ペドロ1世の心臓が200年も保存されてきたこと、そしてそれが一時とはいえ、ブラジルに帰国した理由を、心臓に心が宿っていると捉えていない日本人には理解が難しい出来事だったのだ。
2022・12・20(3676字)
* 日本にも江戸時代の日本人絵師によって描かれたフランシスコ・ザビエルの像がある。ザビエルは炎の心臓を左手にしている。この絵は教科書によく掲載されている。だからと言って、日本にも心臓信仰があったということはできない。別の機会に言及したい。
参考文献
小池寿子『内臓の発見―西洋美術における身体とイメージ』筑摩書房、2011年
樺山紘一『歴史のなかのからだ』ちくまライブラリー、1987年
養老孟司「ヨーロッパの身体性―第1回ハプスブルク家の心臓埋葬」『考える人』(新潮社季刊)2012春号139-155頁
養老孟司「ヨーロッパの身体性―第2回心臓信仰」『考える人』(新潮社季刊)2012夏号186-201頁
その他
履物を脱ぐ文化・脱がない文化
履物を脱ぐ文化・脱がない文化
先日、発達心理学の教科書のページを繰っていると、とある図版が目に入ってきた。それは、乳児の奥行き知覚を把握する米国の大学の実験の光景であった。検査用ベッドに上向きに寝かされた乳児が上からの落下物に反応するのかどうかをみようとする実験である。靴を履いたまま上向きに寝かされた赤ん坊の姿に違和感を覚えたのだ。日本では、こうした時、赤ん坊に限らず大人も靴を履いたままでは検査台に乗らない。
そこでふと思い出したのが、ブラジル育ちの息子に日本では靴を脱ぐのだということを体得させるのに苦労したことだった。息子が3歳になる時に日本に帰国した。苦労したのは家に入るときは靴を脱ぐということを覚えさせることだった。外出から帰宅すると、靴を履いたまま上がり框に足をかけて、家に上がろうとする。そこで玄関のたたきに靴を脱がせながら、家の中では靴は脱ぐのだと言い聞かせるという毎日であった。ある日銀行に行った時のこと、当時まだあった縦長の床置きの灰皿の上に息子は靴を脱いで乗せて、「やったぞ!」とばかりに、得意げに私に見せにきたことがあった。とにかく靴を脱ぐことは覚えたのだ。ところが、次の問題である。日本では建物によって靴を脱ぐ場合と脱がない場合があるのだ。つまり、家では靴を脱ぐが、銀行やレストランでは靴を脱がないのである。この違いを体得させるのが次の苦労であったが、いつの間にか息子はその違いを覚えたようだった。面白いことに靴脱学習と共にポルトガル語を忘れていったようだった。
ヨーロッパの多くの国では家の中でも靴を履いたまま生活する。現在はどうなっているか判らないが、20世紀末のイタリア、ミラノで目にした光景である。居間で革靴を履いたまま生活している男性の姿があった。床が傷つくだろうにと眺めていた。さすが女性はヒールの靴は履いてはいなかった。ブラジル南部のドイツ移民の多い街で過ごした時には、人前で靴を脱ぐのは裸になるのと同じことだという説明を受けたことがある。以来、人前の素足がお行儀悪く感じるようになった。とはいえ、当然のことながらバスルームでは靴を脱ぐ。寝室でも靴を脱ぐ。要するに、家の中のプライベート空間では靴を脱ぐが、居間や食堂、玄関といったパブリックな空間では靴は脱がないということだ。
家の中で靴を脱ぐか脱がないかは寒暖の違いで説明されることがある。単純化して言えば、寒いから靴を脱がず、暑いから靴を脱ぐという説明である。確かに、日本を含む東南アジアは蒸し暑いとされるところでこれらの地域の諸国では履物を脱ぐ習慣が一般的にみられる。他方、イギリス、オランダ、ベルギーといった、日本より高緯度の地域では靴を脱がない習慣がみられる。とはいえ、寒さの厳しい北欧ではブーツを利用するので、家の中に入ればブーツを脱ぐ。ところが、南欧のイタリアやスペインでは、地中海の湿気が加わったサハラ砂漠の40℃を超える熱風シロッコが吹くが、靴を履いて生活している。
この靴を「脱ぐ」と「脱がない」の全く反対のライフスタイルがずっと気になっていた。ある時イタリア南部のマテーラでサッシと呼ばれる洞窟住居と出会った。この洞窟住居を見学した時、ヨーロッパの靴を履いたままの習慣の起源にたどり着いたと思った。現在ではユネスコの世界遺産となっているが、当時はイタリアの単なる観光地の一つで、旧市街地とされていたが、依然住人が生活をしていた。家の中を公開しているお宅を見学させてもらった。居住空間となる洞窟内には、2~3か所の空間がある。一つには竈があり台所のような機能を果たし、もう一つの空間は馬小屋に使用されていた。そして洞窟の真ん中の一番大きな空間には寝台、食卓、機織り機などがあった。床は文字通りの土間である。日本のかつての民家を思い出したが、中心となる洞窟に据えられていたベッドに目を見張った。なぜ靴をはいたまま生活するのかという疑問の答えが見つかったような気がしたのだ。
土間の中心に置かれたベッドは大人の胸ほどもある高いものであった。椅子がなければ、ベッドに上れないし、横にもなれない。一日の生業を終えてやっと横になる時が、着替えをして初めて靴から解放されるのだ。土間にはニワトリなどの家畜が放し飼にされ、うろうろしていた。犬もいた。人間と動物が一つ屋根の下で生活していた。だからこそ、家畜がベッドに乗れないように高くしてあるのだ。一家のベッドはこのベッド一つで、子供も一緒に寝るのでかなり大きい。そして朝起きれば、土間での生活が始まるから、靴を履くか、裸足で家の中を行き来することになる。絵や写真で見る中世ヨーロッパの農民の生活である。貴族の屋敷では15世紀になると床はタイルや木製となり、カーペットが敷かれるようになるが、靴を履いての生活は続いてきた。
日本の古民家にも土間があり、そこで煮炊きをする。時には隣接して馬小屋がある。しかもかつてはこの土間に藁を敷いて寝るということもあったようだ。江戸中期以降、畳が普及すると土間に設けられた上がり框の先に畳が敷かれ、この畳の上での食事や寝泊まりやその他の日常生活が展開されるようになった。つまり土間から上がり框に上がる時、履物を脱ぐことになる。そこでは脱ぎやすい足袋や履物の普及が関係してくることになる。
現代のヨーロッパの家と日本の家を比較して見ると、玄関の扉の開閉の方向が、履物の脱ぎ履きと関係しているのではないかとも思える。靴を履いたまま玄関に入るヨーロッパの家の玄関の入口の前には、往々にして足マットが置いてある。そこで靴についた汚れを落として入室する。玄関ドアの外にマットを置くので、大方はドアは内開きである。現代の日本の玄関ドアは外開きである。玄関に入りそこで靴を脱ぐので、内開きにして玄関を狭くしない。ヨーロッパの家でも時として、玄関ドアが外開きのことがあるが、その場合はドアの外側が一段低くなっていることが大半である。一段低くなった石段にマットを置くことができる。外にマットを置かない場合は、玄関に入るとマットが置いてあって、そこで靴を履き替える。長靴を抜いて短靴に履き替えるが、履物入れはない。入った玄関のマットの上に脱いで置く。イギリスの農村でよく目にする光景だ。
気候と建物が相互に関係しあって履物を脱ぐ、脱がないの文化を時間をかけて形成されてきたのであろう。日本と西欧相互の生活スタイルが広く認識されるようになったのは、20世紀末以降のグローバル化以降のことである。以来、両者は相互に新しい生活スタイルに関心を寄せるようにはなった。西洋化を先進の証として、西洋の靴利用の生活を日本は学びはしたが、今でも家では靴を脱ぐし、学校でさえ上履きと下履きの区別をし、校舎に入ると大きな「下駄箱」がドーンと据えられている。他方、ドレスコードを発展させ、靴をトータルなスタイルの一要素としてきた西欧世界は、日本人の履物を脱ぐ生活を通して、寝室以外で靴を脱ぐことはリラックスでき、しかも清潔な暮らし方になるとは認識し、昨今のコロナのパンデミックによって、家の内外での履物の区別が促進したと聞く。だが、多くの人々は靴を履く生活をしているのが現実である。いすれにしても、両者の履物に対する生活スタイルは基本的には変化していない。相互に情報が交わされる中で、文化は変容していくのだろうが、今後、両者の靴の生活はどのようになっていくのだろうか。
(2022・11・05)
外国で大人がジャンケン?!
先日MLBのエンジェルスの試合を観ていたところ、大谷選手が同じチームのマーシュ選手とジャンケンをする光景が目に入った。そこで思い出したのが、かれこれ7,8年前のドイツ代表とスコットランド代表のサッカー試合である。審判がコインの携帯を忘れたため、ジャンケンで先攻を決めた出来事があった。審判はそれなりの責任を問われたとのことだが、ジャンケンが日本以外で、しかも大人がしているゲームであることを知った。そういえば2012年にもベルリンのサッカークラブの選手がバイエルン・ミュンヘンの選手とジャンケンでキッカーを決めるということもあった。日本の子供の遊びとばかり思っていたジャンケン⊛を、海外で、しかも大人がしていることに驚いた。
⊛本稿では、明治期以来戸外や室内で異年齢自由集団によって行われてきたじゃんけん遊びを「ジャンケン」あるいは「ジャンケンゲーム」として記している。
そこで周りの外国人にジャンケンについて尋ねてみた。フランス人、アルゼンチン人、ブラジル人、それに日系ブラジル人のいずれも50歳代の知り合いにそれぞれの国でジャンケンをしたことはあるかと聞いてみた。面白いことに何れもジャンケンを知ってはいるが、自分はしたことがないということであった。フランス人によれば、ルールが複雑で理解できなかったし、サッカーなどで先攻後攻を決めるにはその辺の枯れ枝を二本拾ってきて、その枝の長短で決めていたという。世界のジャンケンを紹介した本を見ると、フランスのジャンケンは石、ハサミ、木の葉、井戸の4竦みと紹介されている。グー、チョキ、パーの三竦みの日本の一般的ジャンケンよりもっと複雑だろう。フランスのジャンケンは日本のように誰でも知っているゲームではないのかもしれない。アルゼンチンの知り合いも、ジャンケンは知っているが、子供が遊ぶのは「パンとチーズ(pan y queso)」と向かい合った二人がそれぞれ言いながら踵とつま先をつけながら一歩一歩歩を進め、相手の足の上に到達した方が勝ちというものだそうだ。ブラジル人の場合もジャンケンは知っているが、子供の頃に遊んだのは「偶数か奇数か(par ou impar)」と言って手の指をそれぞれ出して両方を足した数が、偶数か奇数かを問うものだったという。そういえば50年ほど前のこと、ブラジルで生まれて親と共に日本に帰国した友人が、ブラジルのジャンケンはそれぞれ出した指の数を合わせて奇数か偶数かを言い当てるのだといっていた。ブラジルでは奇数偶数が判る年齢はいくつからなのかと思いもしたが、この遊びを通じてブラジルの子供は早くから奇数偶数が判るようになるのかもしれないと思った。2世の日系ブラジル人は、日本移民の町では子供達はジャンケンをしていたが、そこ以外では奇数偶数遊びだったという。ブラジルの偶数奇数遊びは、同じように偶数か奇数を言い当てるイタリアの「ピンポンパン大砲爆弾に(Alle bombe del cannon pim pum pam)」とよく似ている遊びである。ブラジルにはイタリア移民が多いことから、イタリアの習慣が持ち込まれたのかもしれない。米国にもイタリア移民が多いところにはこの遊びがあるということを聞いたことがある。では、野球やサッカーの試合で私が目にした大人による決定手段としてのジャンケンはたまたまだったのか。
先日ブラジル人の知り合いが、ひとつ情報をくれた。ブラジルで2014年に出版された初心者用のポルトガル語テキストに、「ジャンケン」が掲載されているという。「コイントス」、「ビンゴゲーム」、「宝くじ」などといったブラジルのポピュラーなくじやゲームの単語が並ぶ頁に、「石・紙・はさみ(またはジョケンポー)pedra, papel, tesoura (ou joquempô) 」も掲載されている。決して子供の遊びの一つとしては紹介されてはいない。さらに書籍のタイトルにも用いられているのを見つけた。ブラジルの南部の州で2008年に出版されたアンソロジーのタイトルが『石・紙・ハサミ―第38回ワークショップ短編集』とされ、表紙のデザインには石紙ハサミの指の形が障子を背景にちりばめられている。15人の若手の作家が未発表の短編小説を掲載して読者にその評価をしてもらおうという意図で結果の判らない難しいゲームに挑戦したというコメントがつけられている。つまりジャンケンを先の見えないことに挑戦するゲームに例えているのだ。
現在、カナダと米国ではプロのジャンケン世界大会を毎年開催する2つの組織がある(「世界石紙ハサミ協会(World Rock Paper Scissors Society-WRPS)」及び「世界石紙ハサミ連合(World Rock Paper Scissors Association-WRPSA)」)。一つは2002年に、もう一つは2015年に結成されている。2002年に国際ゲームとしてのルールを標準化して以来、「世界石紙ハサミトーナメント大会」が開催されている。スポンサーによる支援やテレビ放映を通じて欧米諸国で知られるようになり、カナダ、米国、英国、オーストラリア、ニュージーランド、ノルウェー、ハンガリー諸国はこれらの世界大会に代表選手を送り出すために、自国内でチャンピオン大会を開催している。2019年の英国のチャンピオンの賞金は2万ポンド、米国の賞金は5万ドルが準備されていた。またギネスブックによれば、これまで最多の競技者が参加した大会は2014年に米国のインディアポリスで開催されており、その数は2950人であったという。欧米以外でも開催されている。例えば、2008年の北京オリンピック後にスポンサーである米国のビール会社の名を冠した国際チャンピオンシップが北京で開催されている。今や諸外国ではジャンケンは、日本人が考える子供の遊びを超えた役割を担っているようだ。
さらに、諸外国の子供は日本のジャンケンの光景とは異なる場面でジャンケンに参加している。フィリピンでは昼の人気バラエティ番組のプログラムの一つに賞金付きのジャンケンゲーム(“Jackpot En Poy”)があって、大人と子供がペアを組んで勝ち抜き合戦をしている。米国では、放課後に子供を預かる活動をしているNPOがジャンケンの普及活動をしている。また身体を鍛える手段の一つとしてジャンケンが活用されている。ジャンケンして負ければ○○体操、勝てば▽▽体操、あいこならば××体操というように利用している。ブラジルでは、幼児教育の専門家が子供の知育の発達にとジャンケンを紹介している。学校での体育の科目の一つとしても取り入れられている。チャンネル登録者90万人を超える人気俳優のYouTubeでは、10代の子供が教室で二手に分かれてジャンケンをゲームとして競っている動画が掲載されている。「石・紙・ハサミゲーム」から着想を得て創作された石を象徴する男性、ハサミの姿をした男性、優しく美しい紙を象徴するかのような女性といった3人の登場人物が物語を展開する短編アニメもある。
以上のように賞金を伴うプロが参加する「石・紙・ハサミ」大会が存在すると同時に学習教育科目の一つのように扱われるジャンケンは、明らかに現在の日本のジャンケンとは異なっている。では、こうした各国のジャンケンは、いつ、どのように広がったのだろうか。
1920年代から30年代にかけて来日した英国、フランス、米国のジャーナリストがそれぞれの国にジャンケンを紹介している。当時は日本のこの遊びの珍しさから注目され紹介されたと思われる。以後日本の諸外国との関係発展に伴いジャンケンが知られるようになったと言われている。しかし、上述したような21世紀における諸外国のジャンケンの展開に直接繋がったとは考えにくい。さらに日本企業の経営が世界のお手本とされるようになった80年代以降に日本の子供がジャンケンをするのを外国人はそれほど頻繁には目にしていないだろうし、海外駐在員が各国でジャンケンをして広げたとも思われない。先述した知り合いの外国人が10歳頃と思われる1970年代から80年代には、ジャンケンはまだ彼らの生活の中に取り入れられていなかったようだ。にもかかわらず、21世紀に入るとともに石紙ハサミ選手権大会が各国で開催されるようになったり、教育の場面に登場するようになったりした理由は何なのだろうか。そこで、先の外国人にどのようにしてジャンケンを知ったのかを尋ねると、日本のアニメからだというのだ。いわゆるポップカルチャーと言われるようになった日本の漫画やアニメの流行は、20世紀の末以降のことである。
海外で人気の代表的漫画として「ワンピース」、「NARUTO―ナルト―」、「ドランゴンボール」の3点が挙げられるようだ。いずれも少年向け漫画週刊誌に80年代から90年代に掲載が始まった作品である。21世紀にはアニメや映画さらにゲームとしても開発された。冷戦後のグローバル化とITの普及、さらに日本外務省のポップカルチャーによる日本文化普及政策を背景に世界各国で注目されるようになったといえよう。
これら3作品の中でジャンケンに繋がる漫画は、アクション漫画の先駆けとなった「ドラゴンボール」である。「ドラゴンボール」は1995年に米国で放送が開始され、1998年には人気を呼び、日本アニメ浸透の契機を創り出した。その後ビデオゲームでも浸透し、2009年には20世紀ホックスが実写映画を製作しハリウッド映画として全世界で公開された。北米の他、ヨーロッパ諸国や南米、中東で人気を博しているという。とりわけブラジルでは「聖闘士星矢」と「ワンピース」と共に日本以上の人気を呼び、独自の「ドラゴンボール」のアニメまで制作されている。主人公孫悟空の戦闘の場面とサイヤ人としての変身場面が好まれている。TVアニメとしては世界80ケ国以上で楽しまれている。バトルを通じて敵を仲間にしながら強く成長していく孫悟空の姿が描かれ、この過程で多数の技が使用される。主人公が少年時代によく使用したのが「ジャン拳」である。酔拳、猿拳、龍拳、狂拳など「ドラゴンボール」には多数の拳技が登場するが、拳遊びから着想を得たジャン拳以外は架空の技である。
この「ドラゴンボール」が、21世紀初めに注目されるようになった諸外国におけるジャンケンゲームと繋がったと考えられないだろうか。だからこそ、日本の子供のジャンケンでは見られない光景であるスポーツとしての、しかも大人も楽しむゲームとして取り入れられたのではないだろうか。
こうした海外でのジャンケンの人気に日本でも反応があった。2011年と2018年に新たに「日本じゃんけん協会」及び「日本じゃんけん連盟」が結成されている。詳細は不明だが、協会は会員400名以上を数え、勝利の確立を統計学から検討しようとしているようだ。連盟は社会文化かつジェンダーの違いを乗り越える新たなコミュニケーション手段にさせたいとしてじゃんけん大会も開催している。江戸時代から楽しまれたという拳遊戯を今日に伝える団体が存在するが、上記2つの「日本じゃんけん」団体はいずれとも関係なく結成されている。このことを考慮すると今世紀になって新たにジャンケンを活用しようという意図のもとに結成されたようだ。
明治時代以来子供の拳遊びと理解されてきたひとつの日本の文化が大人も楽しむゲームに再解釈されようとしている。これは海外における「石紙ハサミゲーム」と「ドラゴンポール」の影響と考えられるのではないだろうか。また、江戸時代の遊郭で楽しまれていたといういくつかの拳遊びから生まれたとされるジャンケンの祖先帰りにも似ている。ある社会の一つの文化が、異なる社会で再解釈されて、再度もとの社会に伝えられた時、新たな側面を持って伝えられた。ダイナミックに変容する文化の一事例であろう。
「花見」の花はなぜ桜なのか
「花見」の花はなぜ桜なのか
三田千代子
時は春。寒さに耐え抜いて花が咲き競う季節である。今年のお花見も新型コロナウイルスのパンデミックで制限されるのだろうと桜の花に思いを巡らしていると、ふと疑問が湧いた。春に咲く花は沢山ある。なのになぜ「花見」の花は桜なのか。
「花見」は単に咲いた桜の花を眺めるだけではない。桜の花を愛でながら、仲間を集っての宴を催す春の慣習だ。東京の上野公園、隅田公園、飛鳥山公園といった江戸時代から続く桜の名所には開花にあわせて多くの人が集まる。江戸時代中期の将軍吉宗(在位1716-1745年)が、庶民の娯楽の場にと隅田堤や飛鳥山に桜を植えたことから桜の名所となった。徳川将軍家の菩提寺である上野寛永寺での「花見」に人が多数押し寄せるようになったことから新たな「花見」の場として出現したのが、飛鳥山、御殿山、隅田堤である。
江戸時代の花見が今日の娯楽としての「花見」に繋がるのだが、さらに遡れば、1598年に豊臣秀吉は、死の数か月前に壮麗な花見の宴を醍醐寺の山麓で開催している。当時すでに武士の世界でも「花見」の習慣が根付いていたのだ。さらに800年遡った平安時代にも「花見」は行われていた。奈良時代以前から中国との交易を通じで唐風文化に染まるなかで貴族は舶来の梅を愛でるようになったが、導入された唐文化は大和の国で再解釈され、新たな文化として国風文化の形成に繋がった。嵯峨天皇の時代(在位809-823年)に貴族の間で自生の桜に対するブームが起こり、831年には宮中で天皇主催の行事として酒を酌み交わしながら桜の花咲く木の下で和歌を詠むという「花の宴」が催された。梅から桜に代わる象徴的な出来事は、平安遷都から40年程経た頃、京都御所内裏の「左近梅」が枯れてしまった時の対応である。新たに植えられたのは梅ではなく、桜であった。以来21世紀の今日まで植え替えられながら「左近桜」は継承されている。日本で国風文化が台頭していくなかで、唐の国は衰退の道を歩んでおり、遣唐使も9世紀末には廃された。
750~780年の間に編纂されたとされる『万葉集』には、万葉仮名とされる漢字が用いられたのに対し、最初の奏上が905年にされた『古今和歌集』はいわゆる仮名で表記されていた。このように国風文化が浸透する中で、舶来の梅ではなく自生する桜に目が向けられるようになった。1008年に上梓されたとされる『源氏物語』の「若紫」では、紫の上の美しさを桜に例えている。
他方、農民にとり自生する山桜は農作業のカレンダーのような役割をしていた。桜の花は春の到来を告げ、農閑期の冬が終わり、稲作を始める時期を知らせたと同時にその年の豊作を祈る神事ともつながった。農民は、桜の咲く頃に酒や食べ物を持って「山行き」あるいは「春山入り」と称して山で一日を過ごして、冬を支配していた神様を山に送り返し、山の神を田の神として里に招いた。同時に桜の花の咲き具合によってこの年の稲の出来具合を占った。つまり「花見」は、ここからその年の稲作が始まる農事なのであった。
「さくら」の語源にはいくつかあるが、「咲く」に複数を意味する「ら」を点けたとする説明や稲(さ)の神様が憑依する座(くら)とがひとつの言葉になったとも説明される。後者の説明は当時の農事と直接つながるが、いずれも「さくら」への特別な思いが感じられる。さらに712年編纂の『古事記』や720年に完成された『日本書紀』に登場する女神「木花之佐久夜毘売(コノハナノサクヤビメ)」が「さくら」の語源ともされる。「木花」は桜の花で、年穀を占う神木とされていた。奈良時代から桜と農事をつなげる捉え方を農民がしていたことになる。要するに、日本国内に自生していた桜は、稲作と共に固有の社会文化的役割を担う樹木となり、大坂(大阪)、京、江戸と都市が成長した江戸時代には、「花見」が農事ではなく、庶民の娯楽となったといえそうである。
新型コロナのパンデミックが続くこの数年、シートや縁台に座っての「花見」は難しい。パンデミックが終焉した時、またあの平和な「花見」の賑わいが戻ってくるのだろうか。時間と共に生活習慣は変化する。日本独特の花を愛でる形態が戻ってくることを期待したい。花見の形態がここで変化するなら、これもまた花見の歴史の一ページになるのだろう。
(2022年3月24日)
柿とKAKI-モノの伝播と文化
柿とKAKI―モノの伝播と文化
三 田 千 代 子
五月の薫風に酔いながら駅に向かって歩いていた。いつも目にしていた柿の木が黄白色の小さな花を付けているのに気が付いた。現役時代には脇目も振らず速足でただひたすら駅を目指して歩いており、見慣れた柿の木に咲く花に全く気づくことはなかった。夏休みが終わりまた新学期が始まると、色づき始めた柿の実を駅に向かいながら目にすると、秋学期が到来したことを実感させられたことは思い出す。でも柿の花の記憶は全くない。
柿の木の葉に覆われるように咲いている可憐な花に目をやりながら立ち止まっていると、ブラジルのサンパウロで目にした柿を思い出した。かれこれ50年以上も前のことである。朝市に並ぶ柿は全て完熟していた。日本人の私にとって柿とは、包丁で皮をむいて、シャキシャキと食するものであった。熟し過ぎて形が崩れそうになった柿に手を出すことはなかった。それが、朝市の店頭に並んでいるのである。この今にも崩れそうな柿をどうやって客に渡すのかと見ていると、客がプラスチックの容器を持参し、それに柿をそっと入れている。持ち帰ってそれをどのように食するのか俄然興味が湧いた。日系ブラジル人の友人に聞けば、皮を付けたまま適当な大きさに切って、果肉の部分だけを口で吸って食べるのだという。つまり、「柿を食べる」というのではなく、「柿を吸う」というのだそうだ。もう一つの食仕方はそのままパンに塗って、ジャムのようにして食するという。要するに、ブラジルの柿は渋柿であるために、完熟させなくては食べられないのだという。ならば干し柿にしたらと提案したら、すでに試したが湿気と温度が適当ではなくうまくいかなかったという。それから20年後、サンパウロにKAKI FUYU(富有柿)、KAKI JITRO(次郎柿)といった甘柿が次々と出現した。朝市の店頭では、店主がナイフで皮をむいた柿を適当な大きさに切って道行く客に振る舞っていた。柿は、「吸うもの」から「食べるもの」に変化していた。渋柿を甘柿に変え、柿の食仕方に変化をもたらしたのは、ブラジルに渡った日本移民の功績の一つである。では、以前サンパウロで見たあの渋柿はどこから伝えられたのか。
19世紀に、フランスで観賞用に用いられていた柿をブラジル人の作家が持ち帰ったことがその始まりとされている。最初は種子が、次に苗木がブラジルにもたらされた。独立後の19世紀の初め、ヨーロッパ、特にフランスを範として近代社会を築いたブラジルは、ヨーロッパ伝来の文物を次々導入した。この過程で、柿は「KAKI」としてフランスからブラジルに伝えられたのである。
柿は東アジアの固有種とされ、日本あるいは中国長江流域を原産とするとされる。中国では「柿」の文字を用い、日本では「カキ」と称していた。日本に漢字が伝えられると「賀岐」や「加岐」の文字を当てたようであるが、最終的には中国の「柿」を用いて「カキ」としたようである。となると、「KAKI」としてフランスからブラジルに伝えられた柿は、日本からヨーロッパに伝えられたものと推測される。
イタリアでも柿は「カキ」である。ミラノの市場に並ぶ柿にはCACO(カコ)の看板が掲げられている。なぜCACHI(カキ)ではないのかと店の前で立ち止まる。そうかイタリア語は複数の名詞の語尾は[ⅰ]となる。つまり“CACHI”では複数の柿になってしまうので、商品名は単数(つまり総称として)の”CACO”なのだと合点した。大航海時代を制したスペインでもポルトガルでもCAQUI(カキ)である。となると、日本原産の柿がヨーロッパに、そして新大陸に伝播した経緯が知りたくなる。
柿の学名はDiospyros Kaki Thunbergである。Thunbergとはスウエーデンの植物学者で医者でもあったカール・ピーター・ツンベルグ(Carl Peter Thunberg, 1743―1828年)のことで、出島で商館付医師として日本に滞在し、柿をヨーロッパに紹介した人物の一人とされている。同様に出島に駐在したケンペル(Engelbert Kanpfer, 1651-1716年)やシーボルト(Philipp Franz B. von Siebold, 1796-1866年)なども日本の文化や動植物をヨーロッパに紹介した人物としてよく知られている。特にシーボルトは植物2000種、植物標本1万2000点を持ち帰り、『シーボルト日本植物誌』(瀬倉正克訳、八坂書房、2007年)を著している。
日本の柿は、17~18世紀に「カキ」という名称とともにヨーロッパに伝えられ、さらに大西洋を渡り、南米にもたらさられた。ブラジルで日本移民と出会うと、渋柿が甘柿に品種改良され、柿の概念を一変させた。この間、実に300年。人の移動とともにモノが伝わり、伝わったその先々で新たな文化を創り出した。移動すするヒトやモノが変化しても、移動に伴う新しい文化の創造は常に続いており、人類の歴史は新たな文化の創造の歴史でもあろう。
イギリスの英語にも“KAKI”なる単語がある。米国では、よく知られるようにPERSIMMONが用いられる。この言葉の語源は先住民のもので、日本の柿が米国に伝わった時、Japanese Persimmon Kakiと名付けられたところから、Persimmonが英語の単語として用いられるようになったようである。大航海時代を念頭に置くと、ポルトガルやスペイン商人も日本の柿をツンベルグの遥か以前にヨーロッパに伝えていた可能性はあるのだが、別の機会に調べてみたい。
(2200字)