文化・社会よもやま話

新旧大陸10ケ国余を巡った社会人類学者の文化あれこれ

「花見」の花はなぜ桜なのか

  「花見」の花はなぜ桜なのか

                            三田千代子

 時は春。寒さに耐え抜いて花が咲き競う季節である。今年のお花見も新型コロナウイルスパンデミックで制限されるのだろうと桜の花に思いを巡らしていると、ふと疑問が湧いた。春に咲く花は沢山ある。なのになぜ「花見」の花は桜なのか。

「花見」は単に咲いた桜の花を眺めるだけではない。桜の花を愛でながら、仲間を集っての宴を催す春の慣習だ。東京の上野公園、隅田公園飛鳥山公園といった江戸時代から続く桜の名所には開花にあわせて多くの人が集まる。江戸時代中期の将軍吉宗(在位1716-1745年)が、庶民の娯楽の場にと隅田堤や飛鳥山に桜を植えたことから桜の名所となった。徳川将軍家菩提寺である上野寛永寺での「花見」に人が多数押し寄せるようになったことから新たな「花見」の場として出現したのが、飛鳥山、御殿山、隅田堤である。

江戸時代の花見が今日の娯楽としての「花見」に繋がるのだが、さらに遡れば、1598年に豊臣秀吉は、死の数か月前に壮麗な花見の宴を醍醐寺山麓で開催している。当時すでに武士の世界でも「花見」の習慣が根付いていたのだ。さらに800年遡った平安時代にも「花見」は行われていた。奈良時代以前から中国との交易を通じで唐風文化に染まるなかで貴族は舶来の梅を愛でるようになったが、導入された唐文化は大和の国で再解釈され、新たな文化として国風文化の形成に繋がった。嵯峨天皇の時代(在位809-823年)に貴族の間で自生の桜に対するブームが起こり、831年には宮中で天皇主催の行事として酒を酌み交わしながら桜の花咲く木の下で和歌を詠むという「花の宴」が催された。梅から桜に代わる象徴的な出来事は、平安遷都から40年程経た頃、京都御所内裏の「左近梅」が枯れてしまった時の対応である。新たに植えられたのは梅ではなく、桜であった。以来21世紀の今日まで植え替えられながら「左近桜」は継承されている。日本で国風文化が台頭していくなかで、唐の国は衰退の道を歩んでおり、遣唐使も9世紀末には廃された。

750~780年の間に編纂されたとされる『万葉集』には、万葉仮名とされる漢字が用いられたのに対し、最初の奏上が905年にされた『古今和歌集』はいわゆる仮名で表記されていた。このように国風文化が浸透する中で、舶来の梅ではなく自生する桜に目が向けられるようになった。1008年に上梓されたとされる『源氏物語』の「若紫」では、紫の上の美しさを桜に例えている。

他方、農民にとり自生する山桜は農作業のカレンダーのような役割をしていた。桜の花は春の到来を告げ、農閑期の冬が終わり、稲作を始める時期を知らせたと同時にその年の豊作を祈る神事ともつながった。農民は、桜の咲く頃に酒や食べ物を持って「山行き」あるいは「春山入り」と称して山で一日を過ごして、冬を支配していた神様を山に送り返し、山の神を田の神として里に招いた。同時に桜の花の咲き具合によってこの年の稲の出来具合を占った。つまり「花見」は、ここからその年の稲作が始まる農事なのであった。

「さくら」の語源にはいくつかあるが、「咲く」に複数を意味する「ら」を点けたとする説明や稲(さ)の神様が憑依する座(くら)とがひとつの言葉になったとも説明される。後者の説明は当時の農事と直接つながるが、いずれも「さくら」への特別な思いが感じられる。さらに712年編纂の『古事記』や720年に完成された『日本書紀』に登場する女神「木花之佐久夜毘売(コノハナノサクヤビメ)」が「さくら」の語源ともされる。「木花」は桜の花で、年穀を占う神木とされていた。奈良時代から桜と農事をつなげる捉え方を農民がしていたことになる。要するに、日本国内に自生していた桜は、稲作と共に固有の社会文化的役割を担う樹木となり、大坂(大阪)、京、江戸と都市が成長した江戸時代には、「花見」が農事ではなく、庶民の娯楽となったといえそうである。

 新型コロナのパンデミックが続くこの数年、シートや縁台に座っての「花見」は難しい。パンデミックが終焉した時、またあの平和な「花見」の賑わいが戻ってくるのだろうか。時間と共に生活習慣は変化する。日本独特の花を愛でる形態が戻ってくることを期待したい。花見の形態がここで変化するなら、これもまた花見の歴史の一ページになるのだろう。

                         (2022年3月24日)

柿とKAKI-モノの伝播と文化

柿とKAKI―モノの伝播と文化

                        三 田 千 代 子

 五月の薫風に酔いながら駅に向かって歩いていた。いつも目にしていた柿の木が黄白色の小さな花を付けているのに気が付いた。現役時代には脇目も振らず速足でただひたすら駅を目指して歩いており、見慣れた柿の木に咲く花に全く気づくことはなかった。夏休みが終わりまた新学期が始まると、色づき始めた柿の実を駅に向かいながら目にすると、秋学期が到来したことを実感させられたことは思い出す。でも柿の花の記憶は全くない。

柿の木の葉に覆われるように咲いている可憐な花に目をやりながら立ち止まっていると、ブラジルのサンパウロで目にした柿を思い出した。かれこれ50年以上も前のことである。朝市に並ぶ柿は全て完熟していた。日本人の私にとって柿とは、包丁で皮をむいて、シャキシャキと食するものであった。熟し過ぎて形が崩れそうになった柿に手を出すことはなかった。それが、朝市の店頭に並んでいるのである。この今にも崩れそうな柿をどうやって客に渡すのかと見ていると、客がプラスチックの容器を持参し、それに柿をそっと入れている。持ち帰ってそれをどのように食するのか俄然興味が湧いた。日系ブラジル人の友人に聞けば、皮を付けたまま適当な大きさに切って、果肉の部分だけを口で吸って食べるのだという。つまり、「柿を食べる」というのではなく、「柿を吸う」というのだそうだ。もう一つの食仕方はそのままパンに塗って、ジャムのようにして食するという。要するに、ブラジルの柿は渋柿であるために、完熟させなくては食べられないのだという。ならば干し柿にしたらと提案したら、すでに試したが湿気と温度が適当ではなくうまくいかなかったという。それから20年後、サンパウロにKAKI FUYU(富有柿)、KAKI JITRO(次郎柿)といった甘柿が次々と出現した。朝市の店頭では、店主がナイフで皮をむいた柿を適当な大きさに切って道行く客に振る舞っていた。柿は、「吸うもの」から「食べるもの」に変化していた。渋柿を甘柿に変え、柿の食仕方に変化をもたらしたのは、ブラジルに渡った日本移民の功績の一つである。では、以前サンパウロで見たあの渋柿はどこから伝えられたのか。

19世紀に、フランスで観賞用に用いられていた柿をブラジル人の作家が持ち帰ったことがその始まりとされている。最初は種子が、次に苗木がブラジルにもたらされた。独立後の19世紀の初め、ヨーロッパ、特にフランスを範として近代社会を築いたブラジルは、ヨーロッパ伝来の文物を次々導入した。この過程で、柿は「KAKI」としてフランスからブラジルに伝えられたのである。

柿は東アジアの固有種とされ、日本あるいは中国長江流域を原産とするとされる。中国では「柿」の文字を用い、日本では「カキ」と称していた。日本に漢字が伝えられると「賀岐」や「加岐」の文字を当てたようであるが、最終的には中国の「柿」を用いて「カキ」としたようである。となると、「KAKI」としてフランスからブラジルに伝えられた柿は、日本からヨーロッパに伝えられたものと推測される。

イタリアでも柿は「カキ」である。ミラノの市場に並ぶ柿にはCACO(カコ)の看板が掲げられている。なぜCACHI(カキ)ではないのかと店の前で立ち止まる。そうかイタリア語は複数の名詞の語尾は[ⅰ]となる。つまり“CACHI”では複数の柿になってしまうので、商品名は単数(つまり総称として)の”CACO”なのだと合点した。大航海時代を制したスペインでもポルトガルでもCAQUI(カキ)である。となると、日本原産の柿がヨーロッパに、そして新大陸に伝播した経緯が知りたくなる。

柿の学名はDiospyros Kaki Thunbergである。Thunbergとはスウエーデンの植物学者で医者でもあったカール・ピーター・ツンベルグ(Carl Peter Thunberg, 1743―1828年)のことで、出島で商館付医師として日本に滞在し、柿をヨーロッパに紹介した人物の一人とされている。同様に出島に駐在したケンペル(Engelbert Kanpfer, 1651-1716年)やシーボルト(Philipp Franz B. von Siebold, 1796-1866年)なども日本の文化や動植物をヨーロッパに紹介した人物としてよく知られている。特にシーボルトは植物2000種、植物標本1万2000点を持ち帰り、『シーボルト日本植物誌』(瀬倉正克訳、八坂書房、2007年)を著している。

日本の柿は、17~18世紀に「カキ」という名称とともにヨーロッパに伝えられ、さらに大西洋を渡り、南米にもたらさられた。ブラジルで日本移民と出会うと、渋柿が甘柿に品種改良され、柿の概念を一変させた。この間、実に300年。人の移動とともにモノが伝わり、伝わったその先々で新たな文化を創り出した。移動すするヒトやモノが変化しても、移動に伴う新しい文化の創造は常に続いており、人類の歴史は新たな文化の創造の歴史でもあろう。

イギリスの英語にも“KAKI”なる単語がある。米国では、よく知られるようにPERSIMMONが用いられる。この言葉の語源は先住民のもので、日本の柿が米国に伝わった時、Japanese Persimmon Kakiと名付けられたところから、Persimmonが英語の単語として用いられるようになったようである。大航海時代を念頭に置くと、ポルトガルやスペイン商人も日本の柿をツンベルグの遥か以前にヨーロッパに伝えていた可能性はあるのだが、別の機会に調べてみたい。

                            (2200字)

夏の夜空

夏の夜空

                             三 田 千 代 子

夜の闇が迫った8月のある日、図書館での調べ物を終えて爪先上がりの小道を歩いて行くと西の空にはいつも目にする宵の明星が、南東には月に寄り添うようにオレンジ色の豆電球のようなものが目に入った。それは私が考える白や黄色の光を放つ星とは異なっていた。目にした瞬間、「何が空に浮かんでいるのか」と思った。動かないところをみると流れ星でも人工衛星でも飛行機でもなさそうだ。そこでふと閃いたのは、「15年振りの火星大接近」というメディアの報道であった。そうか、火星はこんな色をしているのかと、しばし立ち止まって眺めた。決して「きれい!」という印象ではなかった。とはいえ、齢70を超える私が人生で火星の存在を肉眼で認識した始めての瞬間であった。プラネタリウムで観る火星ではない。正真正銘の火星を目にしたのである。

帰宅してネット検索すると、2003年(8月27日)の「火星大接近」が21世紀の大接近とあり、この時の地球との距離は5575万㎞とあった。今年(2018年7月31日)の「大接近」は5759㎞で、2003年には及ばないがそれに準ずる「大接近」とのことである。火星と地球は2年2か月程の周期で常に接近はしているようであるが、これら「大接近」といわれるような数値は、過去では約6万年前で、今後は280年後のことになるらしい。となると、2003年の「大接近」を見逃しているのだから、今年の「大接近」は改めて眺めておかねばならない。書斎の窓から再度月と火星を眺めた。

それにしても、大都会東京の夜空に浮かぶ星の数は情けない程わずかである。肉眼で見えるのは、金星に月に木星に今回の火星程度である。とはいうものの、月明かりがなければ天の川も見られるはずで、それに伴って織姫彦星も認識することができる。時々飛行機のライトが夜空を賑わしてくれることもあるが、素人が目視できる東京の夜空の星はこの程度である。ぽつんぽつんと見える星を眺めながらいつの間にか私は、かれこれ20年前に見たブラジル北東部地方の半乾燥地帯の満天の星を思い浮かべていた。

ブラジル滞在中は調査に追われ、滅多に夜空を眺めることはなかった。ある日調査が長引き日が暮れてしまい、宿泊先のホテルに帰り着くことができなくなった。そこでしかたなく、人口7000人余の小さな田舎町(Fazenda Nova)に宿泊することになった。町の人口数にしてはあまりにも立派なホテルがあることが判り、とりあえずそこに宿泊することにした。聞けば、世界最大の野外劇場(Teatro do Nova Jerusalem )があり、キリストの生涯が演じられる聖週間には、町の人口が35万人に膨れ上がるという。町の人口とのバランスを欠いた立派なホテルの存在の理由がここにあったかと納得した。ブラジルの半乾燥地帯は定期的に干ばつに襲われる生活環境の厳しいところである。しかもカトリック王国ポルトガルの植民地として早期に開発が開始されたところであることから、伝統的にカトリック信仰が根強いところである。それがこうした法外な野外劇場を作り出したのであう。

夜ホテルを出て、町唯一の娯楽施設であるバールに行く途中の道は闇の中にあった。その道をドームのように夜空がすっぽり覆っていた。自ずと星空が目に入ってくる。夜空を埋め尽くすばかりに犇めいている星の数に圧倒された。時には流星が静寂の夜空に賑わいをもたらしていた。星が満天に輝くためだろうか、空は薄く靄がかかっているようにさえ見えた。南十字星と偽十字星はなんとか確認できたが、南半球で目にするその他の星の名はよく分からなかった。強いて言えば、北半球では南に見えるオリオン座が、反転したような形で北の空に輝いていた程度である。

オリオン座は冬の空に光る三ツ星が目印となる。三つ並んで輝いているのでつい地球との距離は同じかと思ってしまうが、一番近いミンタカでさえ687光年、一番遠いアルニラムは何と1977光年と、2~3倍距離の違いがある。光の進む速さを距離にして測定する1光年とは9兆4600億㎞であるから、ミンタカにしてもアルニラにしても人間が実感できるような距離ではない。金星、火星、地球、土星は太陽という恒星の惑星で、太陽系と呼ばれるが、太陽系がその一部を構成している銀河系は数百億とも数千億ともいわれる恒星によって形成され宇宙に浮かぶ銀河の一つである。オリオン座も太陽系同様にこの銀河系の一部である。宇宙には銀河系とは別の銀河が2000億もあるだろうといわれている。そんな宇宙の広がりなど到底想像すらできない。そんな未知の宇宙の点にもならないような地球という星に人類はたったこの40万年程生きてきたにすぎないのだ。数多ある星のなかの地球という星に人類が誕生できたのは、確かにいくつかの物理的要因が存在したであろうが、地球誕生から約45億年、その最後の40万年前に人類が誕生し、今こうして人々は多々コミュニケーションを交わしながら生きているのは奇跡としか思えない。憎んだり、けんかをしたりしている場合ではない。この稀有な体験を大切なものとしたい。(2018/9/6)

リンゴは何色?              

リンゴは何色?              

                           三 田 千 代 子

 二年程前、仕事でアラブ首長国アブダビに立ち寄ることになった。飛行機を降りて空港内を歩いていると、カフェテリアの陳列ケースの中にある緑色の塊が目に入ってきた。こんなところに置いてあるペンキの緑色のような物体は何かと、好奇心に駆られて目を凝らして観てみた。何と緑色のリンゴがガラスのケースの中にいくつも重ねて並べられていたのである。日本の王林のような黄緑色ではない。まさに緑色そのものなのである。アラブのリンゴは緑色なのかと認識を新たにしたが、食指は動かなかった。

 日本人がリンゴといって思い浮かべるのは赤いリンゴである。詩に童謡に歌謡曲にと歌われてきたリンゴは、赤くて丸い果物である。スーパーマーケットに並んでいるリンゴを見ると、現実には赤や黄色や黄緑と多彩である。しかも、赤いといっても真紅から黄緑が混じったようなリンゴまであり、赤い色もまちまちである。にもかかわらず、日本人はリンゴに丸くて赤いものというイメージを持っている。子供にリンゴの絵を描いてもらうと揃って赤いクレヨンを手にして丸く描く。この赤くて丸いというリンゴの色と形は日本人の頭には、一対になって刷り込まれている。

 こんなことを考えているうちに、5010も前にパリのオルセー美術館で観たセザンヌの『青リンゴ』の絵が思い出された。当時の私は、セザンヌはまだ熟していない青リンゴを描いたものと思って眺めていた。しかし、アブダビで緑のリンゴに出会ったことで、緑といえども熟したリンゴがあることに気づかされた。となると、セザンヌの『青リンゴ』は未完の美しさを描いたのではなく、完熟したおいしいリンゴとして描かれたのかという思いにいたった。そういえば、10年程前に友人と歩いたパリの下町の青果店の店先にいくつもの木箱の中に入ってリンゴが並べられており、赤いリンゴだけでなく、緑色のリンゴが箱一杯に詰められていた。立ち寄った街角の売店で手にした絵本には、男の子がハンモックのようなものに横になって緑のリンゴをかじっている姿が描かれていた。フランスでは、緑のリンゴがリンゴなのだと理解した方がどうも素直な解釈のようだ。

 ベルギーのシュルレアリズムの画家ルネ・マグリットも緑色のリンゴを描いた作品を数点残している。例えば、「盗聴の部屋」では、一つの大きな緑色のリンゴが部屋全体を占めている。「人の子」という作品では、低い塀と曇った空をバックに山高帽を被って起立している男性が描かれており、その顔は青リンゴで隠されている。同様の構図が「世界大戦」という作品と「山高帽の男」という作品にも用いられている。「世界大戦」では、日傘を差した女性の顔がスミレの花のブーケで隠されている。「山高帽の男」では、帽子を被って立っている男性の顔の前で一羽の白鳩が羽ばたき、その顔は隠されている。これら顔を隠した小道具に注目すると、マグリットにとってリンゴが緑であることが日常の当然の認識だったのではないかと推察される。つまり、ヨーロッパのある地域の人々は、日本人がリンゴを赤と認識するように、リンゴを緑と認識するのだろうと思われる。

 西アジアを原産地としながらもリンゴは、熱帯や寒帯を除けば、世界中にそれぞれの地で新たな種(しゅ)を誕生させてきた。リンゴの種(たね)の形態が、シルクロードを通って西と東に世界中に広がることを可能にした一要因とされている。滑らかな滴の形をしたリンゴの固い種は、馬が食べても消化されず、そのまま排出され、キャラバン隊とともに一日数十キロの旅をして次なる地の土壌と気候に適応して、新たなリンゴをアジアやヨーロッパに誕生させてきた。現在世界では7500以上のリンゴの品種が栽培されているといわれるが、この程度の数の収まったのは接ぎ木という技法を人間が発見したことで、遺伝的多様性に富むリンゴを限られた数の栽培種に育て上げてきたことによる。フランスはモロッコやイランでリンゴ栽培の技術指導を行っており、アブダビで青リンゴに出会ってもおかしくはないのだ。

 ここで面白いことに気づいた。「リンゴのような頬っぺの女の子」というと、大方の日本人は「赤くて丸い頬っぺをした元気な女の子」を想像する。しかし、リンゴを赤いと認識していない国々では、この表現ではせいぜい「頬が丸い子」と、その形態を思い浮かべるに留まるのではないだろうか。日本に滞在しているイギリス、フランス、ドイツ、ポルトガル出身の知人に「リンゴの頬っぺの女の子」と言われたら、どのような女の子を想像するかを尋ねてみた。みんな揃って「女の子の頬の形が丸い」ことを連想すると答えてくれた。「リンゴ」という言葉をそれぞれの言語で知ったとしても、その背後にある含意、つまり社会文化的意味を把握していないと、思いもかけない誤認に繋がることになりそうだ。            (1972字)                  

                               2019.4.19 

色はいろいろ

色はいろいろ

 

                         三 田 千 代 子

 

 先日、トルコのイスタンブールで警察車両が爆発されたニュースの映像がテレビで流れた。現場立ち入りを禁止する赤白のテープがほんの一瞬であったが目に入った。すると、かれこれ30年程前の経験が蘇ってきた。

 イタリア、ミラノに滞在していた頃のことである。ある月曜日の朝、車を運転して裏通りを通ると、「紅白」のテープが道の両側で巻かれたままになっていた。それを見て私は「昨日の日曜日、この辺りでブラスバンドが繰り出すパレードでもあったのだろう」と、何となく心を弾ませながら車を走らせていた。すると、道の奥の真ん中に「紅白」のテープが巻きついた杭が何本も立っているのが目に入った。見ると道の真ん中に大きな穴が開いていた。弾んでいた私の心はたちまち消沈してしまった。気が付かなければ、車は穴に突っ込んでいたのである。道の真ん中に穴が開いたままでのパレードは、さぞやりにくかっただろうと勝手な想像をした。それにしてもパレードが終わったのに、なぜ主催者は「紅白」のテープを処分しておかなかったのだろうと訝った。周りを見回すとこの裏通りに入り込んできている車は他にない。私の車だけである。そこではたと気が付いた。そうか、イタリアでは赤と白のテープは、「ハレ」を意味する「紅白」ではなく、注意を喚起する「赤白」だったのだ。

 色は社会や文化によってその意味するところが違うのだと、この時、身を以て体験した。同じ景観や空間を眺めていても、文化が異なれば人それぞれ感じたり思ったりしていることは違ってくるのだ。

 そんな文化による色の意味の違いを一枚のブラジル・モダニズムの絵を通じて体験した。キャンパスの中央の上に大きな黄色の丸が描かれ、その右下に大きな一本のサボテン、それをバックに性別不明のデフォルメされた人物が裸で座っている。小さい頭に大きな鼻、小さな肩に大きな腕と手足の人物。400年にわたるヨーロッパ文化の支配から解放され、ブラジル固有の文化の誕生を宣言した代表的な作品である。

 この黄色い丸が描かれた絵は、月が上(のぼ)り灼熱地獄から解放された農民が月夜の晩にサバンナの草原で一息ついている光景を描いているのだと思っていた。

 ところが、数年前、メキシコ事情に詳しい友人と雑談していると、メキシコでは太陽を黄色で描くことを知った。そこで、気が付いたのである。あの大きな黄色の丸は、灼熱の太陽を描いていたのだ。なるほど、サバンナのサボテンに灼熱の太陽、さらに性別不明の大きな人物を通じてブラジル固有の光景を描いて、ヨーロッパと決別したのである。

 明らかに、太陽を黄色と認識する文化の人達とは全く違った形でこの著名な絵を眺めていたのである。日本の文化では、「日の丸」が端的に示しているように太陽は赤と認識されてきた。〽真っ赤に燃えた太陽だから…とさえ歌われたように、日本人にとって太陽を象徴する色は赤なのである。ことほどさように、色が何色なのかを理解してもその色が意味していることを理解することは、なかなか難しい。

 ところが、ミラノで経験したように、危険や注意を意味する色は今日のようなグローバル化の時代には普遍的でなければ恐ろしい結果を招きかねない。

 15年程前、大西洋に浮かぶポルトガルのアソーレス諸島を訪れる機会があった。道路を挟んでそれぞれ一棟ずつビルが建設中であった。一方のビルの周りには赤白のテープが廻らされていた。なるほどこれはヨーロッパの「赤白」だ。ところが、今一方のビルを見ると、黄色と黒のテープが張り廻らされてあった。

 アソーレスには、米国でよく目にする黄色と黒の組み合わせとヨーロッパの赤白とが同時存在するのだ。ポルトガルからアソーレス諸島を超えた先には新大陸の米国がある。第二次大戦後に設立された北大西洋条約機構ポルトガルが加盟したことにより、アソーレスには米軍基地が建設された。こうした地政学的状況から米国の黄色と黒とヨーロッパの赤白とが、この地で出会ったのであろう。かくして、危険や注意を促す二組の色の組み合わせが同時存在することによって、とりあえずは色の意味が普遍化したといえよう。

 今日、日本でも、注意や危険を喚起する意味で黄色と黒色の組み合わせを用いると同時に、赤色のコーンも目にすることがある。アソーレスで起こったことが日本でもみかけられている。

 かくして色は文化によって異なるのみでなく、時とともにも変化しているのである。                                                                                                         

                          52行(2016・06・13)

チョコレートとヨーロッパ

チョコレートとヨーロッパ

                         三 田 千 代 子

 先日、ヨーロッパ旅行のお土産と、素敵なベルギーのチョコレートをいただいた。

 ヨーロッパ産のチョコレートを手にするといつも思うあることがある。「なぜチョコレートがヨーロッパ土産なのだ」と疑問に思う。チョコレートの材料のカカオ豆はメソアメリカ原産だし、今でこそアフリカがカカオ豆の主要な生産地となってはいるが、ブラジル、エクアドル、ペルー、コロンビアといった南米諸国も健在である。さらに、今日の甘いチョコレートには砂糖が必要だ。砂糖の原料の砂糖きびも原産地はパプアニューギニアで、インドを経てヨーロッパに伝えられたものだ。現在では、ブラジルとインドで世界の砂糖生産量の半分を生産している。せいぜいヨーロッパ産といえるのはヨーロッパの牧場で育ったであろう乳牛のミルクだ。そんなことを考えながら頂戴したチョコレートを口にしながらたどり着くのはいつも、作物が世界をめぐって新しい文化が創り出されてきたのだと勝手な得心をすることである。

 高貴な飲み物、あるいは貨幣としてかれこれ4000年ほど前からメソアメリカで利用されていたココア豆がヨーロッパに紹介されたのは1502年で、コロンブスが数回目の新大陸探検の時にスペインに持ち帰ったといわれている。その後、アステカ帝国を征服したエルナン・コルテスが、トウガラシやバニラ、トウモロコシの粉を加えた飲料としてココアが用いられていることをスペイン王室に伝えている。ココア豆の飲料そのものが最初にヨーロッパに紹介されたのは、1544年、マヤ族の使節スペイン王国を訪問した時とされている。トウガラシやトウモロコシの粉の入ったカカオの飲み物は、想像しただけでもおいしいものとは思えない。薬効が信じられたからであろうか、その後スペイン王国は植民地でカカオの栽培を展開している。16~17世紀には西インド諸島やジャワ島にその栽培が広がり、18世紀にはブラジルで、19世紀には西アフリカで栽培が始まった。こうした背景には、ヨーロッパでの需要とカカオを原料にした新たな嗜好品の誕生があったからだ。

 重商主義の下で出現した大航海時代は、アジア、アフリカ、アメリカの各地から珍しい物をヨーロッパにもたらした。茶は中国から、コーヒーはエチオピアから、そしてカカオはアメリカからいずれもほぼ同時代にヨーロッパに薬用として伝えられた。これらに砂糖が加えられて嗜好品となるには、薬として導入された砂糖の生産地が拡大し、生産量が増大した結果である。インドから地中海を経て大西洋を渡り、ブラジル、西インド諸島に砂糖きびプランテーションが拡大し、「世界商品」としてヨーロッパ商人がこぞって扱った。

 紅茶もコーヒーも砂糖を加えさせすれば、容易に甘露な新しい飲み物となった。しかし、ココアの場合は少々違った。

 砂糖きびとカカオの栽培地を植民地に所有していたスペインは、トウガラシの代わりに、砂糖を加えて苦みを軽減することまでは思いついた。とはいえココアは依然薬用であった。17世紀半ば、スペイン王家からフランス王家に嫁いだ王女が、ココアの飲料をフランスに伝えた。カカオ栽培地を植民地に持っていたイギリスにもココア飲料が伝えられ、ロンドンには「チョコレート・ハウス」なるものが出現した。17世紀末、アイルランド王国の医師、ハンス・ストーンがジャマイカで水に溶かしたココアに出会ったが、口にすることができず、牛乳を入れてみた。ミルク・チョコレート・ドリンクの誕生である。18世紀に入るとこのチョコレート飲料はお洒落な飲み物として貴族の間で流行した。

 チョコレートが今日のような固形になるには、19世紀の技術革新が、「チョコレート4大技術革命」をもたらした結果である。オランダのバンフォーテンの創業者が1828年にカカオ豆を圧搾機でココアバターとココアパウダーに分離する方法を開発し、水なしでも飲める口当たりなめらかなココア飲料を開発した。続いて、苦みや酸味を除くダッチプロセスも開発した。それから20年後、イギリスでジョセフ・フライが固形チョコレートを開発した。これによって硬く長持ちするチョコレートが出現したのである。さらにおよそ30年後にはスイスの薬剤師のアンリ・ネスレがチョコレート職人とミルクチョコレートを開発した。そして最後にスイスのロドルフ・リンツがカカオの粒子を滑らかにし、カカオの風味を引き出す、コンチェと呼ばれる機会を発明した。これらの新技術開発の結果、工場での量産が可能となり、今日のようにチョコレートを一般市民が楽しめる時代が到来したのである。

 人気のヨーロッパ土産のチョコレート、その原材料は、確かに、ヨーロッパ以外からもたらされたものである。しかし、これらの材料を組み合わせて、チョコレートという新たな食文化を創り出したのはヨーロッパ人の知恵と技術だったのである。

                             (2000字)

日本の文化とマスクの装着ー新型コロナ感染が流行する中でー(二)

日本の文化とマスクの装着ー新型コロナ感染が流行する中でー(二)

                                 三田千代子

 今日では日本語として使用されている「マスク」の語源は英語のmaskである(フランス語ではmasque、ドイツ語ではmaskeで、いずれも語源は同じ)。最初から日本で「マスク」の表記が用いられたのではない。当時の新聞は「口蓋」あるいは「口蔽器」と記してルビ「マスク」を振っていた。漢字表記が消えたのは、「マスク」の表記のみでその意味することが分かるようになってからのことだと思われる。今や「口蓋」あるいは「口蔽器」と書かれても判らない。今日では「口蓋」は口腔器官の一部を示す用語として用いられている。「スペイン風邪(スペイン・インフルエンザ)」が流行し、感染に対して注意を促すなかで「マスク」とのみの表記になっていったようである。

 今や日本人はインフルエンザの季節を迎える冬にマスクを装着し、春から秋と続く花粉症の季節が終わる頃にやっとマスクが町から姿を消す。大げさに言えば、マスクなしの光景が見られるのは、一〇月から一一月にかけてのたった一~二ケ月間のことであろう。日本人がこれ程マスクと親しくなったのには日本固有の社会文化的要因が関係してきたのではないかと考えてみた。

 まず、一九世紀末から二〇世紀初めまで「国民病」あるいは「亡国病」と恐れられ、日本人の死亡者数の一割から三割を常に占めてきた病結核がある。結核弥生時代に稲作と共に大陸から伝播した病で、江戸時代から明治期の都市化と工業化に伴い感染者が拡大し、一九一〇年をピークに下降傾向を辿っていた。しかし、「スペイン風邪」の流行で結核感染者の死亡が増加し、結核による死亡者がこの時ピークに達した。その後、満州事変まで下降線を辿ったが、再び死亡者が増加し、太平洋戦争が終わるまで増加している。

スペイン風邪」がすでに終息した一九三四年の結核罹患者数は一三一万人を超えており、死亡者数は一三万以上に上っていた。一九〇〇年から五四年まで、結核は各年の死亡原因の一位から三位までを常に占めてきている。一九四四年の治療薬ストレプトマイシンの開発によってやっと「不治の病」から解放されたが、一九五五年以降でも年間の発病者は三〇万人を数えており、二〇一〇年現在でも年間の新規登録感染者は二万人を超えている。先進国の中では結核罹患率は高い国なのである。治療薬が開発されるまで、感染を避けるためにマスクが用いられ、罹患者はサナトリウムに隔離された。とりわけ、換気の悪いところではマスクの使用が奨励された。そう、女工哀史の世界である。富国強兵の国策に沿って、密閉された空間の中で長時間にわたって多数の女工が生糸を一斉に紡いだ。その結果、紡績工場で働く女性が結核に侵された。結核を患った女工は、故郷に帰された。『ああ野麦峠』の舞台である。結果、結核は農村にも拡散することになり、都市の病気ではなくなった。女工ばかりではない。日本の徴兵制も同様の役割を担った。兵役に服する男性が兵舎内で感染し、帰郷と共に農村に感染が広がったのである。この都市のみでなく農村も巻き込んでの結核の全国的な蔓延が日本の結核の特徴の一つである。都市にも農村にも広がったがゆえに、有名人の罹患も多かった。正岡子規徳富蘆花堀辰雄石川啄木樋口一葉竹久夢二滝廉太郎陸奥宗光、新島蘘、そして昭和天皇の弟の秩父宮雍仁親王と、誰でも罹患する病であった。罹患を恐れてマスクが使用されるようになったとしても不思議ではない。とはいえ、結核は日本だけではなく、ヨーロッパでも身近な死の病であった。

 結核菌を発見したロベルト・コッホは七人に一人が死ぬ病としている。トーマス・マンの『魔の山』では、スイスのダヴォスのサナトリウムに従兄弟の見舞いに訪れた主人公が、結核に感染し、そのまま七年間同サナトリウムに滞在している。画家のエドヴァルド・ムンク結核で死亡した母や姉の姿を描き残している。ヴェルディの『椿姫』やプッチーニの『ラ・ボエーム』のヒロインはいずれも結核で死を迎えている。結核だけで日本人のマスクとの親和性の十分な説明とはならない。

 次に、日本語の発音から考えてみた。日本語の音素の数は西洋の言葉と比較すると少ない。母音は五つ、子音は九つにすぎない。アルファベットを用いる言語のように、〔 も〔b〕と〔v〕も、〔r〕と〔l〕も音の違いを認識しない。かつては区別していたとされる〔f〕と〔h〕も現在は区別していない。英語のrace(「競争」あるいは「人種」)と  lace(ひも、編みもの用のレース、モール)は、はっきり区別して発音しないと誤解を招くことになろう。bowは「弓」だし、vowは「誓い」である。ぼそぼそ言っていては判らない。日本語では「おとうさん」でも「おとおさん」でも「おとーさん」でも判る。「しあわせ」でも「しやわせ」でも誤解はない。日本語を習い始めたヨーロッパ語を母語にする外国人は、この日本語のはっきりしない発音に戸惑うという。どうも日本語は各音素がはっきり聞こえなくても理解できてしまう言語のようだ。つまり、マスクで籠った音を発してもコミュニケーションは取れるのだ。

 これには伝統的な日本のしぐさも関係している。平安時代から扇で顔を隠す習慣が貴族の間にあり、しかも御簾を通して発話をしていたのである。これでは、口元どころか顔もはっきり見えなかったであろう。つい最近まで女性の嗜みとして大きな口を開けて声を立てて笑ってはいけないという躾けがなされていた。要するに口元に目が向けられることは避けられてきたのである。従って、マスクをして顔が見えなくても構わないのだ。むしろ顔の表情が見えない方がいいのかもしれない。日本の諺で「目は口ほどに物を言う」というのも、口に目を向けないからこそ生まれたものであろう。

 日本人には「スペイン風邪」以後も、結核感染が常に身近であったことからマスクとの付き合いがこの一〇〇年間続いてきたようだ。そしてインフルエンザだ、花粉症だと言ってマスクを手にするようになった。とはいえ、諸外国にもインフルエンザも花粉症もある。でもマスクを用いない。そこには前号の記述のようなネガティブなイメージが付いて回るからである。日本人がサングラスにある種のイメージを抱いてきたのと似ているように思える。

 新型コロナの感染を避けるためにはマスクといっても西欧世界でなかなか普及しないその背景には歴史文化的な関係が潜んでいるのだろう。コロナ感染が世界的に広がるなかで、ヨーロッパでもアメリカ大陸でも各国の行政機関はマスク着用を住民に訴えるようになったが、なかなか普及しない。フランスやドイツでは「人権侵害だ」「民主主義に反する」とのデモが勃発したり、マスクの着用を乗客に促したバスの運転手が殺害されたりしている。米国では「自由の侵害だ」というデモが起こったりしている。コロナ禍に対する鬱積した気持ちがマスク着用に抵抗する行動を生み出しているのだとは思われるが、同じように感染がなかなか収束しない日本では、マスク未着用者を非難するという欧米諸国とは全く反対の「マスク警察」の出現である。現在のコロナ禍を前に、欧米社会はマスク着用という新たな生活様式を歴史を克服して身に付けることになるのだろうか。

                         (二〇二〇年八月一〇日記)